05/17/06
宗教改革14(独の場合7・・シュマルカルデン戦争)
騎士戦争・農民戦争を経た後に、今度はルター派の諸侯は同盟(シュマルカルデン同盟1530)を結成して、皇帝との内戦・・・シュマルカルデン戦争(1546〜47)に発展するのです。
シュマルカルデン同盟(1530)は、平成18年4月17日・・・3のコラムで紹介した皇帝によるルター派承認取り消し(1529)に端を発したプロテストに始るのです。
上記コラムでも書きましたが、ドイツでは、領邦君主と皇帝との勢力争いに端を発していますので、フランスのような個々人の信教の自由の問題としての争いよりは、ドイツの場合は、領邦君主の領地内・・一団としての信教の自由の問題になっていくのです。
フランスでは、王権が大きくなって・・・・国内の封建領主の権限が弱くなっていき、絶対君主制になっていくのですが、神聖ローマ帝国内では領域が広すぎたせいかどうか知りませんが、封建諸侯の権限が小国家並に大きかったことが、皇帝権力の不安定化を招きこのような状況を生み出していたのです。
神聖ローマ帝国皇帝自身、もとは選定侯による選挙によって選出される仕組みだったことにもその遠因があるでしょう。
ドイツでは、今でも連邦制になっているのは、そのような歴史があるからです。
皇帝が諸侯の領地内で、どの宗教を広めようとも文句言わないと言う、今でいうところの地方自治あるいは自治共和国を認めるかどうかが、内戦の大きな目的だったのです。
宗教戦争は、諸侯の権力拡大の名目に使われていた面もあったのです。
こうした歴史経過があって、個人の信仰の自由ではなく、領地ごとの信教の自由を認める4月17日・・・・1「世界宗教の非合理化6(仏の場合1・・・ナントの勅令)」のコラムで紹介した「アウグスブルクの和議」に繋がるのです。
ドイツの宗教戦争では、その後に有名な30年戦争がありますが、このときも旧教派のフランスが対抗馬のハップスブルグ家に対抗するために(敵の敵は味方と言う古典的論理です)、新教派に味方して戦うのです。
、諸侯や中小国軍の連合軍同士が、勝ったり負けたりしてほぼ30年間戦っていたのに、大国・フランスの参戦によって、軍事力バランスが崩れ、最後に旧教側が負けてしまったのですから、皮肉なことです。
このように西洋の宗教戦争といっても、その実質は、諸侯や、国王間の勢力争いに利用されていただけだったのです。
この30年にわたる戦争が回り中から来た兵士によってドイツ領内で戦われたので、ドイツは国内が荒廃し、次の来るべき時代・産業革命で英仏の後塵を拝する結果になったように思われます。
長引いた応仁の乱で、都が荒廃してしまったのと同じです。
ドイツ30年戦争は、今回のテーマから外れますので、またの機会に書くことにしましょう。
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