05/17/06

宗教改革13(独の場合6)

ドイツ農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移っていったと言われています。
前回コラムで書いたように、農民は、キリスト教徒が混乱している状況を見て、これをチャンスと見て既存秩序破壊のためと、進行する商業化によって生じた格差不満を梃子に立ち上がったのですから、本来ルタ−派(ルターの考え)とは関係がないのです。
現在中国の内部格差が、沿海部と内陸部との格差であるのに対し、ドイツにおいては南北で生じていたのです。
ちなみに、北ドイツは、これまで紹介しているハンザ同盟の本拠地で、時代進展の先端を行っていた地域ですし、他方ドイツ南部は、遅れた農村地域でした。
こうして私の言う所の宗教改革・・本来のキリスト教・・商業者のための宗教に戻る運動は、商業の発達した地方で支持者を広げていくのです。
ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散などの改革を進めていったので、神聖ローマ帝国皇帝との間で、領邦国家として皇帝からの信教の自由獲得問題となって行きます。
イギリスのヘンリ8世が、イギリス国教会をローマから独立させた経過・・・・トーマス・モアとの関連で紹介したことがありますが、要するに自主権獲得運動だったのです。
神聖ローマ帝国内の諸侯は、イギリスやフランスの諸侯(イギリスやフランスでは、そもそも諸侯と言われないでしょう)とは、違って規模が大きかったので、神聖ローマ帝国の皇帝とは別に、一種の国のように自分の領邦内の教会は自分の好きな宗教にしたい・・・・ひいては自由に統治したいと言う問題になっていたのです。
この問題は、04/17/06「世界宗教の非合理化と改革6(仏の場合1・・・ナントの勅令1) 」のコラムでも書きました。
イギリスやフランス、スペインなどでは、諸侯が小さくて宮廷貴族化していったのに対し、ドイツでは、諸侯のほうが力をもっていて、皇帝の権力が弱まる一方であったことが、次に書く、シュマルカルデン戦争に発展して行く素地となっていくのです。
この政争のテーマに、ルターの論題が格好の材料になったのです。
こうした領封制の歴史が、いまでもドイツ連邦共和国と言う連邦制になっている原因です。
また、フランスやイギリスは、王国・国王と日本語で、表記するのに対し、ドイツでは神聖ローマ帝国皇帝・・次のプロシャによる統一後は、ドイツ皇帝(カイゼル)と呼びならわされる違いも、ここにあるのでしょう。



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