05/16/06

宗教改革12(ドイツの場合5・・・ルターと騎士戦争・農民戦争1 )

免罪符事件の発端に戻りますと、ローマ法王庁から見れば、反対の出来ない一番弱いところで始めたつもりが、却ってドイツ内部の皇帝反対勢力の勢いをつけてしまったのです。
反皇帝派が多くて不安定な所だから、反対できないだろう・・・・大丈夫と言う法皇庁の発想は、今考えればおかしなものですから、これの真相は別のところにあったのかもしれません。
話を免罪符に戻しますと、元々あちこちの教会でやっていたのですが、今回まとまった資金が必要と言うことで笛や太鼓で大々的にやったので、大事件になってしまったのです。
こうしてルターの批判は、既存権力批判=反皇帝派の格好な材料として受け入れられ、それぞれの政治勢力の利用するところとなっていくのです。
先ずは、諸侯によって次第に追い詰められていた騎士層が、宗教動乱に乗じて教会諸侯領の撃破を唱えて蜂起しましたが、諸侯軍によって簡単に鎮圧されます(騎士戦争、1522〜23年)。
次に、教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達は、ルターの思想的な影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱を起こします。
この出来事をドイツ農民戦争(1524〜25)と言い、これが有名なので農民が宗教改革の先頭を切った事件であるかかのような誤解を与えているのです。
彼らは農奴制の廃止や封建的地代の軽減などを求めて「十二カ条の要求」を掲げて戦い、一時は南ドイツの3分の2を制圧したとも言われています。
反乱はさらに各地に広がり、特に再洗礼派の代表者であるトマス=ミュンツァー(1490頃〜1525)が指導した中部ドイツでは激しい暴動になったので、社会全体に与えた影響の大きさは、騎士戦争のときとの比ではないので、世界史的に有名になっているのです。
しかし、騎士戦争も含めて、ルターの堤題によって、法王庁や皇帝の権威が傷つけられた機会に、
    「日ごろの不満をぶっつけただけ」
と言う反時代的な運動であった点は、同じでしょう。
トマス=ミュンツァーは、初めルターの福音主義(聖書中心主義・・・今で言う所の原理主義です)を支持していたとも言われますが、再洗礼派の人々に出会い、次第にルターから離れて過激化し、教会の腐敗・堕落を激しく攻撃するようになっていくのです。
彼こそ、本ものの社会正義派だったのでしょう。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資