05/15/06
免罪符・贖罪寄付(西洋での寄付の慣行)ビルゲイツ
今でも、そうした追徴制度や罰金の併科規定のない場合や、個人被害者でも、示談が出来ない場合などに、被害弁償に代えて、罪滅ぼし(これを難しく贖罪寄付と言うのです)のために利用されています。
この刑事贖罪は、キリスト教で言う・原罪をあがなうものではないですが、もしかしたら、現在の贖罪寄付の考え方は、キリスト教の免罪符の焼き直し・・あるいは、その親戚・・・免罪符に歴史を持つ制度ではないか?と言うのが今回の疑問です。
宗教改革で、免罪符はまるで意味がなくなったと日本では思われていますが、意外に社会的あるいは刑事事件では、西洋でも、現在に至るまで使われているのではないでしょうか?
ところで、西洋では、と言うか世界中で、何かの法令違反でなく、具体的に何か悪いことをしているのでなくとも、「儲け過ぎ」だけでも、何となく社会的なマイナス評価される傾向があります。
これを放置していると、ホリエモンのように、(彼は「実際違法なことをしていた」と言う御叱りを受けそうですが・・社会と言うのはそんなものです)何らかのアラ探しで処罰が待っているのです。
マイクロソフトのビルゲイツなども寄付に熱心ですが、彼に限らず、欧米・キリスト教系社会では、貧富の差が大きい分、別途寄付やボランテア活動が盛んです。
そこには、任意に寄付することで免罪される意識、政治的道義的な免罪意識の伝統が、働いているように思われます。
法令による強制的な支出や労働をしても免罪されないが、自発的拠出・・自発的労働には、免罪・・社会的プラス評価が期待されていて、道徳的・社会的マイナス評価を減殺する働きが期待されているのです。
こうした社会では、何から何まで、税金や罰金にしないで、自発的な寄付やボランテア活動する余地を残しておくことになるのでしょう。
日本には、こうした歴史がありませんので、これまで紹介したように、取るべきものは総て罰金や追徴として、強制的に取り上げてしまう傾向がありますし、労働時間も体力が余ってるなら、さらにへとへとになるまで残業してくれと言う世界です。
税金も絞れるだけ絞るのが、正しいと言う考え方です。
(税金を取りすぎると、国際競争に負けるとか不景気なるとかの、他律的限界を議論し、政府も我慢しているだけです。)
目一杯の生活をしている国民は、寄付をする余裕がなくて、寄付の精神も根付きませんし、ボランテアしたくとも、仕事から帰ったらもうクタクタで、それどころじゃないと言う人が殆どの社会となるのです。
これでは、いろんな方面で国民に自主性が育たないし、育てたなくない社会なのです。
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