05/31/05
千葉の歴史21(千葉県人とは10)醤油2
2/10/03「千葉の歴史8(千葉県人と海洋史観4・・勤勉革命)」以下の連載で、勤勉革命が千葉にまで及ばなかったと書きましたが、利根川流域では、醤油、味噌で代表される世界的な産業が江戸時代以降発達しました。
ちなみに銚子にあるヤマサ醤油は、紀伊の国から来た浜口儀兵衛が1645年(正保2年)に始めたと言われています。
ところで古代のヒシオ・・・・醤には、動物系から大豆などの穀物系がありますが、わが国では穀物系が発達していたようです。
穀物系の醤油であれば、何故銚子港で浜口さんが始めたのか疑問に思う所ですが、(私などは銚子の鰯で「だし」を作ったのかと思いました。)わが国の近代醤油は、金山寺ミソの副産物に始るらしいのです。
1254年に禅僧・覚心(かくしん)が中国から持ち帰った径山寺(きんざんじ)味噌の製法を紀州・湯浅の村人に教えたらしいのです。
そのうちに、この醤からしみだす汁が美味いことからいことに気づき、今でいう「たまりしょうゆ」になったといわれています。
紀州・湯浅で生まれたしょうゆの製法は、その後も発展し1588年(天正16年)には、紀州から100石(約18000L)のたまりしょうゆが、大阪に送られた記録が残っているそうです。
こうして紀州では早くから醤油製造のノウハウがあったことから、銚子に進出したときに生活必需品であったミソや醤油産業も一緒に進出しただけなのかもしれません。
醤油産業は銚子河港にとどまらず、利根川沿いに遡上して野田のあたりで定着しました。
野田醤油(キッコウマンの前身です)その他利根川沿いの醤油は、当初上方の醤油に比べてブランド力が低かったことから、およそ、3分の1の値段でしか売れなかったらしいのです。
先ずは継続的な大量供給できる有利さ・・・商人に不可欠な供給責任です・・・とたゆまぬ努力で、ついに上方醤油よりも信用を得るようになったのです。
これまでも紹介しているように、関東平野は水田よりも畑作が中心でしたので、材料の大豆生産に適していたことと、(これは、水戸の納豆でもいえることです。)利根川の大量の水、野田・関宿からは一気に江戸へ水路を下るだけで輸送も簡単だったことが幸いしたでしょう。
と言うよりも、こうした立地のよさに目を付けて進出してきたのです。
原材料生産地と大消費地を控えていたなどの好立地が、時間の経過で有利になったものです。
日本企業が戦後、海外での安かろう悪かろうのイメージを打破して、漸く日本製品の信用を獲得し、しかも必要に応じて、大消費地近くで工場立地するという今のやり方と同様のことを江戸時代に経験していたのです。
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