05/31/05

千葉の歴史20(千葉県人とは9)(醤油)水路付け替えの実際

頼朝の挙兵の話に流れましたが、源の為義の三男義広(信太の三郎先生{せんじょうと読みます}義範)も常陸の国信太の庄(いまの利根川を少し遡ったあたり)に居住し、源平争乱時代には大きな勢力を張っていました。
信太(志田)の三郎先生義範については、09/18/04「源平争乱の意義4(平家の武士としての役割1・・・貴種であるだけ?)」のコラムで頼朝挙兵後頼朝とそりが合わず、足利家(藤原氏流)と組んで反旗を翻して負けていることを紹介しました。
ところで、江戸時代初期まで(1654年)は、今の利根川は江戸湾にそそいでいたことを12/12/04「関東平野の今昔(雑木林は原風景か?)」のコラムで既に紹介しました。
したがって当時は利根川ではなく、その辺の湖沼群がつらなっていただけでしょうが、こうして房総半島の海岸線ばかりか、今の利根川の先祖に当たる湖沼群の水運を利用して、今でいえばかなり内陸部まで、(今の関宿から結城付近まで)西国とは、往来があったことが分かります。
いま佐原近辺の利根川へ行って見ても、見た目には水流が殆ど分らないほど緩やかで船で遡上するには、急流の多い日本中の他の川よりも楽そうです。
まして、当時は湖沼から湖沼への連なった水路を航行するだけでよかったのですから、(流れらしい流れがないのですから)もっと楽だったでしょう。
ところで、現在のとうとうと流れる利根川を見れば、こんな大きな川をスコップもない時代に江戸川からどうして付け替えたのだろうかと疑問に思う方が多いでしょう。
話が変わりますが、東京の環状7号線の工事をしているころに、その工事線に沿って毎日のように車で通っていたことがあります。
(当時城南と言ったのですが、大田区の方から池袋に帰る道として利用していたのです。)
何もないところに開設工事をしていたのではなく、元々曲がりくねった巾6〜7メートル前後の道が続いていて、ところどころ切れているのをあちこちに折れ曲がって走っては、また3〜4キロ環状に走ると言う繰り返しの道だったのです。
それを太く直線状の大きな道にして、かつ途切れていたところは新設すると言う形で何年も掛けて環状道路をつくっていたのです。
千葉に来てみていた国道16号線の造り方も、市内の通称ぶどう園どおりを真っ直ぐにするときも同じでした。
このように、江戸時代の利根川の付け替えといっても、何もないところに川を作るのではなく、元々あった途切れ途切れの水路・湖沼群を繋いで、その流れをよくしただだけのことだったのでしょう。
こうして海岸線および、今の利根川沿いに西国から間断なく移民が流入していたようですから、在来の千葉県民とは、かなり人種が違っています。



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