05/30/05
千葉の歴史19(千葉県人とは8)(平氏との関わり)
ところで何故これだけの大きな賭けが、歴史上抹殺されて偶然逃げていった先で応援を受けたかのように書かれ、三浦や畠山、梶原、北條などばかり有名なのでしょうか?
実際は、鎌倉幕府では、この戦功で、千葉常胤は頼朝から師父と呼ばれ父のように尊敬を受けていた重鎮であったのですが、物語には殆どと言うか全く出てきません。
その後の勢力争いにもそれなりに噛んでいますが、(三浦の滅亡のときなども)うまく立ち回って?千葉家自体が滅ぼされずにすんでいるのです。
念のため千葉氏の興亡分裂の歴史を見てみますと、一族がいろいろ分かれてはいますが、それなりに宗家を守り立てて、結束して活躍してきたようです。
奥州攻めに活躍して奥州各所に領地を獲得し、奥州にも根を張り、蒙古襲来では、下向先の肥前に領地を獲得して1時は少弐氏と拮抗するほどの勢力になっているなどしたたかです。
建武の中興も新田に着いたり尊氏についたり、果ては直義と尊氏の争いでは直義につくなど、難しい時代を乗り切って下総の豪族として重きをなしていたようです。
千葉氏宗家が滅びるのは室町も後期ころですから、何故頼朝挙兵の経緯から、後世になって省かれるようになったのか理解に苦しむところです。
もしかしたら、江戸時代になって何ごとでも「源氏でなければならない」という思想がはびこった結果、北條は省けないとしても、千葉氏を大きく扱うと平氏であったという点が矛盾するので、出来るだけ小さく扱うようになっただけでしょうか?
平家の血統の千葉氏は、後3年の役で源氏に従って戦功を挙げ、更に保元の乱では千葉宗家常胤は源の義朝の郎党として夜討ちに参加しているのです。
次の平治の乱では佐竹との争いに忙しくて常胤は参加していませんが、広常のほうは、悪源太義平の郎党の1人として、御所内の右近の橘の周りを逃げ回る場面で有名な小松の重盛の追いまわしを一緒にやっているのです。
源氏の勢力は、平家と別々に存在したのではなく、平家の地盤の上に乗っかっていた重層的な関係だったのですから、源氏か平家かの色分けは元々無理なのです。
源平に分類して行く話は、朱子学・儒教的秩序を重んじた徳川政権の無理な歴史教育だったと私は思っています。
徳川がどこかの源氏の系図を入手したらしく、正式文書には源の・・・・・と表記しています。
そのうえで、織田氏は平家だったから・・・とか徳川家の天下取りの正統性を主張していたのです。
そのためにも、徳川の天下取りには何ら実績のない吉良(足利の一族です)などの源氏の名家を、高家などに引き立てたのでしょう。
これも、徳川政権が安定し、その正当性など問題にならなくなった元禄になると、忠臣蔵事件でお役御免となるのです。
源平の盛衰と一般に言われますが、本当は源氏と平家の争いではなかった点については、「09/15/04 源平争乱の意義1(武家社会の到来を告げるもの)以下「09/21/04「貴種担ぎ出しと立憲君主政治5」までのコラムで連載しました。
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