05/30/05
千葉の歴史18(千葉県人とは7)(源氏との関わり2)
なお、義朝が、平治の乱で敗れて平家の天下になってから、中央で唯一残った源氏である源三位頼政は、攝津渡辺党と呼ばれ、その本拠地はこの大物が浦の周辺でした。
更に人脈をたどると、源為義(言うまでもなく義朝の父です)の10男義盛を新宮十郎と称し、さらに源為義自身熊野別当家の女性との間に女子を設けて、その女子が次の別当の妻になっているなど、源氏は、熊野水軍とも提携していたのです。
瀬戸内方面は、来島、河野などの瀬戸内水軍が蟠居していますが、外海系・・紀伊半島から外に出て東方に向かう航路は熊野水軍の独壇場であったでしょう。
ちなみに、熊野水軍(九鬼氏)は、信長時代にも毛利水軍を敵に回して活躍していますし、真偽は別として、武蔵坊弁慶は、熊野の僧と言うことになっています。
その熊野家は、房総半島の今の木更津、君津市付近にあたる畔蒜荘や匝瑳南荘(今の千葉県匝瑳郡?)を領しておりました。
私は弁護士になって初めて(正確にはその4ヶ月あまり前)千葉県に来たのですが、千葉県に来ると、畔蒜(あびる)不動産という大きな会社があるのには驚いたものです。
源為義の長男源義朝(頼朝の父)は、少年期を熊野家の領していた畔蒜荘で過ごしたと言われています。
義朝は上総で育ったので、別名、「上総御曹司」とも言われていました。
このように源氏は、房総半島や今の利根川沿いに勢力を築いていたので、頼朝が後に石橋山で敗れたときに_父義朝の育った房総半島に逃れて再起を期した所以でしょう。
頼朝が父義朝の地盤である上総に上陸できたことが、再起に成功出来た原因だったともいえるでしょう。
どこの地方でも貴種を受け入れて育てた所は、ありがたいことに絶対的な支持者になるものです。
貴種については、、「09/15/04 源平争乱の意義1(武家社会の到来を告げるもの)以下「09/21/04「貴種担ぎ出しと立憲君主政治5」までのコラムで連載しました。
歴史小説などは、頼朝が石橋山で敗れてから、何故房総半島を目指したかについて、殆ど記述せず、自然の成り行きの如く書いていて後は広常の参向が遅れたとことばかり書いています。
今の物語は北條や三浦氏の活躍の話などばかりですが、実際は三浦半島やその近辺の小さな武力では誰が味方についても天下を窺うには多寡が知れていたのですから、実は頼朝にとってと言うよりも(当時は常識ですから、)関係者みんな誰でもが、旗揚げ直後に頼朝の父義朝の故地である房総半島まで行くことが既定の方針であったでしょう。
房総半島の兵力は、上総の介の参戦の物語でも有名なように大規模なものだったのです。
房総半島の豪族が味方につけば、坂東一帯の大方がなびく構図だったのですから、房総への偶然の逃避行ではなく、当初からの計画だった可能性が高いと思うのです。
父親の育った所に行けば、まとまった兵が集まるという読みがあったのでしょうし、ここでさえ兵が集まらなければもうおしまいと言う賭けだったでしょう。
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