05/30/05
千葉の歴史17(千葉県人とは6)(源氏との関わり1)福原遷都の意味
紀州移民以前の千葉県への移民の歴史はハッキリしませんが、(私が知らないだけで、専門家には自明かもしれません。)古くは、河内源氏 (頼朝などの先祖)の動きを見ても、西国からかなりの人数の流入が続いていたことがわかります。
世上常識的には、平氏が水軍で、源氏は騎馬軍団と思われていますが、河内源氏(為義流)は「碇(いかり)知盛」の歌舞伎で有名な攝津大物が浦(当時の畿内海運の中心港でした)に拠点を築き、そこから、水運を利用して坂東や西国(例えば鎮西八郎為朝)各地と兵士の移動や物資流通を通じて全国支配を目指していたことは、今では通説ではないかと思います。
武士団としては、全国的に源氏が圧倒的な地盤を築いていたことは、09/18/04「源平争乱の意義4(平家の武士としての役割1・・・貴種であるだけ?)」以下の連載で紹介しました。
保元平治の乱での清盛の勝利は、在京武士団だけの争いで勝っただけですし、その上時代の流れに抗した一種の反革命だったのですから、全国的な支持・地盤に欠けていたのです。
清盛が何とか全国的地盤を築こうとして、源氏のまねをして福原に港を築くのは彼の晩年のことですし、まだ出来上がったばかりの新興の港であって、そのころまでの水運は源氏が握っていたのです。
折角造っても消費地に遠いのでは、港の機能を果たせません。
今の大阪を想像すると間違いますが、信長のころまでは、水路が縦横にある水の都(湿地帯)だったので、攝津大物が浦・港についてからの運搬(集散)も楽だったのです。
これに比べて、福原・神戸からの都への水運は不便ですから、流通業者は大消費地に近い攝津大物が浦に従来通り船をつけていたでしょうから、まるで競争にならなかったでしょう。
清盛の息子は頼政の息子から名馬を取り上げて、平家滅亡の端緒となったのですが、清盛の方は大人ですから、まさか源氏の本拠地である攝津大物が浦を、頼政から取り上げるような乱暴なことまでは出来なかったのです。
福原遷都は、いきなり何故強行されたか疑問になっていますが、何とかして自分の港に船をつけさせるための強行策だったのかもしれません。
今でも遷都論になると、各県知事は自分の近くに引っ張ろうとするものです。
国家の将来は2の次としても、経済効果を期待するからです。
古くは平城京その他遷都は、藤原氏の地盤との関係で行われたのもその一例です。
源氏は平治の乱で敗れてから、平家の天下になってしまい、源氏としては、以仁王の令旨を奉じて蜂起した源三位頼政1家を除いて滅びたかのように書物は書いていますが、実際は、保元、平治の乱で、源氏が負けたと言っても都に居合わせた源氏が滅びただけであって、地方各地にいた源氏はそのまま残っていたのです。
後記の源の為義の三男義広(信太の三郎先生義範)の例で分るように、為義の息子でさえ保元の合戦に参加しなかったのでそのまま安泰であったのです。
ちなみに信長が、石山寺を攻めているときに、石山寺応援の毛利と熊野水軍との重要な海戦がおこなわれたのも、木津川河口すなわち、この大物が浦近辺であって、今の神戸(福原)が重要港湾になるのは、やっと、幕末に開港してからではないでしょうか?
今は横浜も神戸も大都会ですので、ついうっかりしますが、徳川政府が開港したのは人里離れた、寒村ばかりだったのです。
この点は、中国の香港や上海でも今は大都会ですが、考え方は同じです。
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