05/28/05

千葉の歴史16(川の機能変遷)

広い道路の向かい側と近隣のお付き合いはしないとしても、一定の町並みとしては客観的な一体感・価値観が外形的にあるからでしょう。
経済評価や風俗営業許可基準などとしては、町並みを基準に一つの商業地域とか状況類似地域に指定されるのが、今でも合理的でしょう。
昔は、前記の通り裏に廻れば直ぐ田んぼなどでしたから、こうした指定範囲で充分に分りよかったのです。
今は表通りから裏に、廻っても人家が連なっていて、従来型の商業地域とか状況類似地域の概念・境界がはっきりし難い時代です。
同じように川も、明治までは重要な運輸・交通手段でしたが、車の発達と共に交通面での川の機能は、単に渡るだけのものになってしまって久しいのです。
(道路で言えば横断歩道や信号のある所だけしか渡れないのと同様に、橋のある所まで行かねばわたれません。)
昔はいろんな大中小の川が、大動脈から中小動脈或いは農業用水や、水遊びなどで日常愛され、頻繁に利用されていたのです。
大きな川は、広い川原がいろんな行事の場でもありました。
特に戦後高度成長期以降はコンクリート護岸中心で、川といえば人を隔てる隔離機能や危険な場所の代名詞になってしまったのが、現在の川の不幸の根源でしょう。
明治政府は、川を県境にして人里外れた場所と規定したのは、先見の明があったと言うべきでしょうか?
私は、中学時代までの少年期に広い川原で一日中遊んで育ちましたから、(その後砂利採取の発達で遊べなくなりましたが・・・。)明治以降の先見の明?、川隔離政策を止めて、もっと日常的に親しめる空間に戻していくべきだと言う思いでいっぱいです



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資