05/28/05

千葉の歴史16(川の機能変遷1)

明治政府になって川を都道府県の境界と定めたのは、(東京府と神奈川県の境界を多摩川、東京府と千葉県の境界を江戸川、千葉県と茨城県との境界を利根川)如何にも役人の考えそうなことです。
役人が地図で見るには、分りよいでしょう。
しかし、日本の城下町に限らず世界中どこの国でも、川は動脈であるばかりか、水田に限らずいろんな経済活動の源だったのです。
川は、町の中心・国の中心部を貫流するものであって、川の両岸は文化経済的に密接な関係があるものなのです。
国境(くにざかい)は川ではなく、険しい山になっているのが普通です。
県境は単なる行政区画であって、国境争いをする境界ではないのですから、明治政府の発想は新しいもので正しいのかもしれません。
そう言えば、このころは新しい街区の名称が道路を境界とするものが多くなっています。
昔のように道路の両側が一つの地域として、一つの生活共同体を形成している時代ではなくなっているのです。
今では、大きな道路をわたるのが大変ですから、道路を隔てた向かい側の町内とのお付き合いが全くなくなっているのが普通です。
一つの大通りを基準にして、「この通りから向こうは何丁目」と行政区画割をして学区も違うようにするには適しているのです。
昔の街道は、道路両側に細長く町並みがあって、町の中心部でも2〜3軒裏に廻るともうそこは林や田んぼと言う時代が多かったのですが、そういう時代には、道路に面した両側に生活に根ざした文化、経済その他の一体性があったのです。
街道「筋」というのが、ぴったりの町並みでした。
今でも都市計画法の地域指定(商業地域、第何種住宅地域など)の場合、通りを境界基準としないで、従来どおり、面で指定したり、通りの両側を指定するのが普通ですし、皆さんに関係のある固定資産税の評価でも通りの両側を面で状況類似地域として認定をしていく実務です。



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