05/14/05

千葉の歴史15(千葉県人とは3)紀州移民3と「ほしか」

外国人の問題はさておき、ともかく漁業先進地域紀州から出張で房総地域に来ていた男と、現地女性の間に混血児が生まれると、女性はお父さんのやっている先進漁業を学ばせて自分の子供にやらせたいと希望しますので、次第に新産業現地化の下地が出来てきたのです。
ある程度下地、地盤が出来てからの銚子漁港開発ですから、順序は良かったようです。
ギリシャ、ローマ以前から連綿と続く中東・西洋の植民地経営も、こうした順序を踏んだのではないでしょうか?
こうして紀州漁民が出稼ぎから植民、移住によって徐々に関係を深めていって、最後には漁港の開発までやって1大基地を作ったのです。
それまでの漁港は、自然発生的なものだったのに、銚子に限って何故人工的に漁港が開発されたかについて考えて見ると、銚子港が漁港として発達したのは、肥料(ほしか)の生産に関係があると思います。
銚子・九十九里の鰯を、肥料(ほしか)として関西方面に売りさばくなどの商業ベースでの漁業が始まり軌道に乗ったからのようです。
(まだ文献に当たっていませんので、ここからは私1人の思いつきの可能性がありますので、悪しからずかも?)
ついでに言うと、普通、漁港は消費地に近くないと、車や冷凍技術のない時代には魚が腐ってしまうので、近隣で消費する程度の漁港、すなわち小規模な物で足りたのです。
今でも伊豆半島に電車旅行すると分りますが、車窓から見える小さな入り江にへばりつくように小さな漁村・集落が展開しています。
現在銚子駅から東京駅までは直通の特急列車でも、約2時間も掛かる距離ですから、江戸時代には江戸市中での食品としての消費は、とても考えられなかったでしょう。
「ほしか」という高価な肥料を必要とする需要があって、これを生産し、遠隔地まで運んで販売するシステムが出来上がったことが、消費地から遠く離れた銚子漁港「開発」の原動力になったのでしょう。
銚子漁港が、何故いわしの水揚げで名をなしたかを考えてみますと、現地消費するためではなく「ほしか」にするための現地工場ですから、これだけの高価な肥料を必要とする農業の発達がなければなりません。
現地(九十九里浜海岸で)で季節労働者として手伝った地元民が、報酬の一部として「ほしか」を貰ったものの自分たちの農地で使うのには勿体無いので、すぐ換金してしまったと言われていますので、当時の房総地域では高価な肥料を使いこなせなかったのです。
アラフラ海で真珠を採取していた日本企業が、現地人にボーナスの代わりに少し真珠をやったとしても、現地人にとっては猫に小判だったろうと言う話と同じです。
彼らは直ぐに換金して、生活実需品を買い求めたのです。
現地作業員(だけでなく日本人作業員でも同じでしょう。)は高価な真珠をぶら下げても意味がありませんから、当然これを商人に売ってお金にしていたのです。



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