05/09/03

学校教育の功罪(セミプロの社会)2

私が考えるセミプロの定義は、「自分で判断しないで、権威に盲従し、目先の情報に右往左往する人種」「皆がそう思うのだから、皆がそう行動しているのだから、同じようにやれば、後で失敗と分っても、免責される」という行動型式の人種です。
官僚の特質(と大企業従業員の特性は後に書きます)を持っている人々と同じ範疇の人々です。
昔風に言えば「右顧左眄」して「小心翼々」として生きている小人の類型にあてはまるのでしょうか? 
ところで小人と言えば人を馬鹿にしているようですが、大人は滅多にいるものではないのですから、普通の人と言う程度の意味になりますので、そんなに気にする事では有りません。
明治以降の学校教育は、平均的国民レベルの向上が目的でしたから、教育効果が上がれば上がる程、小人が蔓延することになります。
大量生産と中間管理職の必要な社会では、この教育システムは理想的な効果を挙げて、日本を、世界の経済大国に押し上げました。
しかし、これからの社会は、大量の中間管理職は不要ですし、大量の工員も入りません。
繰り返し主張しているように、文化発信出来る人材が必要なのです。
その為には、均一な回答を求めるこれまでの教育制度を改めて、自分なりの考えをまとめて発表出来る人材を養成する教育が必要です。
私がが見るところ、殆どの人がプロではなくてセミプロでしかないのです
ところが、彼等は自分がプロだと思っているから厄介です。
本当の投資家ならば、日本中の緑なす山野を、次から次へとまる裸にするゴルフ場開発を進めるのが、どういう社会的意義があるかを先ず考えるべきでしょう。
大事な事を全く問題にしないで、売れさえすればいいと言う姿勢で、会員権の購入を勧めたり、都市を将来スラムかするかも知れないワンルームマンション所せましと建てて、売って歩くのが投資家と思い込んでいるのです。
市街地のミニ開発あるいは景観など問題にしないマンション、それぞれ日本の町並みはどう有るべきかの視点が全くなく、儲かりそうかどうかだけの投融資が蔓延しています。
「投資家としての識見の有無」と言う観点から見れば、嘆かわしいばかりです。
なお、このコラムで「プロ」と言うのは、所謂「プロフェッション」とは何かと言う難しい定義(学者が難しく書いていますが、どうも良く分かりません)とは関係なく、専門科集団と言う程度の俗な意味で使っているのですが、それにしてもお粗末ではないかと言いたいのです。




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