04/24/08

諦観とあきらめ(マニュアル社会)

ところで、皆さんご存知でしょうが、念のために書きますと、諦観とは、仏教用語であって、きれいさっぱり諦めることではなく、物事の真理を見極めてじたばたしない・・道理を悟るというのが本来の意義のようです。

佛教の意味では、諦観にまで到達するには、粘り強い修行や思索が前提でしょうが、わが国では長年輸入知識の理解・普及に頼ってきた経験が長いので、安直に先ず「答えを貰えれば」いいと言う習性がしみこんでいるのです。

答えを貰った後は直ぐに思考停止してしまい、その先を考えるのは、「凡俗には無駄・諦めましょう」と言う方向になってしまったので、今では諦=あきらめと言う意味に転化しているのです。

ちなみに「諦」と言う漢字は、悟る・まとめるという意味しか無く、これを「あきらめる」と読むのは、日本独自の連想による用法です。

帝王の帝とは、元々3本の糸を締めてまとめる形を現し、この語源が「締める」という漢字に残っているそうです。

諦観の諦は、帝にゴンベンを付けたものですから、同じくマトメルのでも、乱れた糸を結わくよりは、知的分野での取りまとめ・・思考の整理・論理的まとめ方の意味を付加したものと言えるでしょう。

最近の(といっても数十年経過ですが・・)若手弁護士が、受験予備校のマニュアル頼りで合格してきていること・・自分で考える力がついていないと言うことです・・に対する批判や、直ぐに答えを欲しがる若者気質に対する批判がよく聞かれます。

私は、昭和50年代末ころから平成にかけて日弁連の司法問題対策委員になっていましたが、(そのころは、まだ法曹養成専門の委員会が出来ていなかったのです)当時の司法改革の議論では、こうした話題が底流にいつもあって、それが下敷きになって受験予備校頼りではない法科大学院教育の創設に行き着いた経過があるのです。

しかし、こうした傾向は今の若者だけではなく、わが国は、昔から外来文化の消化吸収で来た事もあって、答えを性急に欲しがる傾向は昔からの習性です。

直ぐに答えを欲しがる習性とこれまで書いているように、抽象的な哲学的基準では無く具体的なルールの必要な社会・・法化社会の究極化が、マニュアル万能化をもたらしているのです。

古くは空海や最澄も、結局は輸入知識(をきちんと理解するには、それナリの能力が必須なことが前提ですが・・・)の普及者ですし、明治以降は横文字を縦に直せば博士という時代が続いていたのです。

議論していても、回りくどい議論を聞いていると「要するに何を言いたいんだよ!」と言う批判がでるのも、途中の議論よりも「結果だけ早く知りたい」と言う遺伝子があるからでしょう。

輸入知識に頼っていたばかりではなく、諦観=悟りの境地→あきらめに連想して行ったのは、わが国特有の国民性と大きな関係があるでしょう。

 

 



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