04/22/08
経済と精神の葛藤(宗教の復活)
気候風土による国民性だけではなく、映画「おしん」で知られるように、明治以降庶民には苦しい時代が続いていたのですが、苦しいナリにわが国経済は、一貫して右肩上がりで成長を続けてきたので、国全体イメージとしては前向き、明るく・・相対的に満足していた人が多かったから、それほど深刻にならないで済んだ面もあるでしょう。
中国でも、いわゆる開放経済以降の超高度成長の結果、国内格差が激しくなるばかりですが、この格差による不満・苦しみは騒乱と言う陽性の方に出て行っているようです。
格差に対する不満が内面の葛藤・・精神病の方に行かないのは、国全体の将来が明るく前向きになっているからでしょう。
将来に展望の開けなかった清朝の末期には、キリスト教が広がり他方でアヘン窟が蔓延していたのとは大違いです。
これからのわが国あるいは先進国では、どんなに頑張っても中国など新興国の興隆に比較して低成長化する・・追い越されていくしかないのですから、国全体としては、先行きが暗い・・うっとうしい社会になって行くしかないでしょう。
経済がグローバル化すれば、世界の生活水準・・所得が平準化していくしかないのは、自然の原理であることを、05/27/07「現地生産化の進行と加工貿易の運命3(人口減少策4)」前後のコラムで連載しました。
この問題を人口増で対処しようとしても、個々人の生活水準が下がる点は同じですから解決にはなりません。
負け組みは何時の世にも存在するのですが、国全体の未来が明るくないと発散するものがなくなって精神的葛藤は深まる一方ですから、これからは、先進国では精神科医の活躍する場面が増えてこざるを得ないでしょう。
ところで、この方面で宗教の役割が復活する余地はないのでしょうか?
現在の精神状況を見ると、民族的圧迫などの不公正取り扱いに対しては、宗教の力は絶大です。
(ユダヤやキリストの発生・発達も民族の危機がもたらしたものと言えるでしょう。)
チベットの場合でみると、圧迫を受けるのに比例してその拠り所としての佛教の紐帯は強まるでしょうが、逆にチベット族が経済発展して、自分の方から世界で伍していくために進んで英会話を学び英語圏に入っていく場合を想定すると、チベットの文化を守る意識も薄らぎ佛教の役割が減少するのです。
「仏教徒が迫害されているのに同じ仏教徒である日本人は何も発言しなくて良いのか?」式の論調が高まって、ついに善光寺が五輪聖火の出発点式場になるのを辞退するところまで来ました。
死に体・・心のふるさととしてしか存在していない筈の、日本の仏教徒までが目を覚まし、息を吹き返して存在価値が脚光を浴びる時代になっていることからも分かるように、民族に対する圧迫ほど宗教の存在価値を高める方法はありません。
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