04/17/08

法から経済へ1(政治責任者の資格2)

このように儒教の教えは、わが国では形だけ、権力で強制されるから仕方なしに従っていたに過ぎなかったものですし、中国から入ってきた古代の律令制も国民に根付かず形式的な役割しかなくて、実際には国中で無視していたものです。

律令制がわが国に根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。

明治に入ってきたルールやローは、国民に従わせねばならないものではありましたが、以上のように、儒教用語や律令精神はあまり定着していなかったから、そのままこれらの用語に翻訳するには抵抗があったのです。

そこで、権力で強制するものとしての律令の用語上に権力の都合で決めているだけではなく国民みんなが従っている・・正しいもの・・佛教の教えである「法」という単語を載せて法令・法律と名づけて定着を図ったのではないでしょうか?

すなわち廃仏毀釈とは言うものの、国民意識の底流では、なお佛教の超越的正義・法には一目おいていたのです。

以上のように、西洋近代および江戸中期以降の日本では、社会生活の規律が宗教では間に合わなくなって具体的な行動基準となる法治主義への転換となったのですが、法治主義とはすなわち血縁での差別をしない能力主義と同義です。

ところが、わが国では、能力主義の必要性が認識されたといっても、幕藩体制の根幹を成す家禄を廃止することまでは出来ずに、足高するだけの微温的な漸進主義でしかありませんでした。

(足高の制については、02/27/04「足高の制の功罪2(身分制度の限界1)」前後で紹介しました。

このような削らずに足していくだけの政治姿勢は、何時も批判しているように現在でも主流です。

能力相応に報われ難い下級武士が中心になって幕末に活躍したのは、この矛盾関係と無関係・・偶然ではないでしょう。

明治維新の社会変革の本質は、門閥、家柄など血縁重視、えこひいきの社会から、四民平等に変革すること・・法治主義社会への変革だったのです。

ただし、明治体制も天皇制を残していた分だけ中途半端で、貴族と天皇家を除く四民平等でしたから、却って精神面では儒教道徳の強化に動かざるを得なかった点が、法治国家としては半端でした。

徳川家が、能力主義に舵を切ったといいながら、足高しか出来なかったのと同様に明治政府はこれを天皇家とその周辺以外に広げただけだったのです。

江戸時代には、ホンのちょっとばかり能力主義・法治主義に足を踏み入れた段階で、明治維新が来るのですが、今度は国民全般に能力主義・・法の支配を貫徹するためには、近代西洋の思想を理解し、西洋並みの制度構築のためと、これに伴う官僚・・テクノクラート養成が急務だったので、法学徒の養成が急務だったのは理解できるところです。

 



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