04/29/06

不均衡発展と内部矛盾4(幕末と明治以降2)

この安政の大獄で逮捕にかかわった岡引まで狙われ、暗殺されたと言うほどのすさまじい仕返しが始ったのです。
この天誅事件が度を過ぎてきて、幕府の威信が地に落ちて来たので、今度は、一転して取り締まりに転じたのが、ご存知の新撰組や会津藩の進駐です。
こうしてテロの応酬・武力進駐による武力弾圧に進んでいくのですから、治安を預かる政府としての威信・・正統性は、ガタ落ちです。
それまでは憂国の志士や上層部では、談論風発でやっていたのに、いきなり弾圧されたのでもう話し合いでは駄目だと言う風潮が、上下を問わずいきなり蔓延してしまったのです。
徳川家はもう正しい意見でも、受け付けられない、どうしょうもない体質である・・・共に国を背負っていく相棒にはならないという評価になってしまったのです。
安政の大獄までは、公武合体説は進んだ説でしたが、安政の大獄後は、徳川家を交えて話し合い・・共同統治と言う発想は、時代遅れと言う常識に変わって行くのですから、あっという間の意識変化でした。
この後で、出て来た頭の古い島津久光が旧来の新説であった公武合体説をとなえ、寺田屋事件など旧式の発想で行動しますが、これが時代遅れと評価されるほど時代が進んでしまっていたのです。
徳川家が為政者としての信用を無くし、倒幕に繋がっていったのですから、井伊直弼の実行した安政の大獄が、徳川家が来るべき新時代でもその主催者になるべき資格を失った原因となった大事件でした。
安政の大獄前後の政治事情については、別の角度から08/28/04「幕末の政治模様5(強圧政治がテロを生む)」前後で詳細を連載しました。
今回は、井伊家の長野主膳と言う国学者の偏狭な心が、徳川家を誤らせた角度から書いたものです。
話が大分逸れましたが、ピューリタン革命との比較に戻しますと、幕末の騒乱は、特定支持層を背景とした騒乱ではなかった点は、外形上似ていると思ってここに登場させたのですが、ついでに個人的事情も政治に影響を与えるものだという角度から、長野主膳を取り上げたので横道にはいってしまいました。
日本では、まだ開国して日が浅く、これによる利益を得ているグループ(内部格差)は生まれていなかったので、長期にわたる内乱状態にならないで済んだのです。
その意味では、開国後日が経っていなかったのが、幸いしたのです。
後に1国内に、異宗教の両立している場合の困難について書きますが、1国内にいろんな価値観を持つグループが分立して根を張ってしまうと、その争いは根が深くなって、一旦戦乱になると簡単には収まり難いものです。
明治維新当時は、日本全体が一つの農業国であって、地域的な諸大名による勢力争いしかなかったのですから、幕末の騒乱と言っても実は単純でした。
それと列強に狙われている自覚があって、それに対処する方法論の争いでの政権交替でしかなかったので、内乱をしていたのでは本末転倒になるので、短期に騒乱が終わり江戸城の無血開城になったものです。



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