04/29/06

不均衡発展と内部矛盾3(長野主膳と幕末の騒乱)

幕末の騒乱は、応仁の乱以降の戦国時代のように、元気があり余ったと言うよりは、最初のうちは、太平の夢をむさぼり、うつらうつらしていた所へ、外から刺激をうけて興奮して動き回っていただけだったのです。
桶の中の泥鰌や魚が、樽を外から突っつかれて吃驚して泳ぎ回っていたようなものです。
こんなことを言うと幕末の志士の子孫に、
     「泥鰌や魚と同じにするな!」
とお叱りを受けそうですが、確かに、ただ右往左往していただけではなく、京に上って情報交換に励んでいたのです。
     (長岡藩の河合継之助なども、その一人です。)
勿論、魚同士でも何らかの情報交換をしているのでしょう。
ここで、、朝廷やその他で、かなりの人脈を築いていた有名人であった井伊家の国学者の長野主膳が登場します。
彼がこの魚同様の情報交換社会を一変させたキーパーソンになるのです。
この情報交換・・・意見交換の過程で、長野主膳は、新しい時代に対する識見を展開出来ず、無能であることがバレバレになってしまったことに、幕末の騒乱が始るのです。
全国から、それなりの有能な人材が集まって議論が盛んになると、彼は国学者としてそれなりの古い知識があったでしょうが、新しい時代に対する応用論の議論についていけなかったのです。
彼は、このことで深く傷つき、周囲の論客全体を恨んでしまったのです。
小人が、誤って権力の中枢にいることのマイナス効果発揮の典型例と言えるでしょうか?
そこへ、井伊直弼が大老になったことから、所謂安政の大獄となりますが、その実行を担ったのが彼でした。
この安政の大獄は、井伊直弼の責任もさることながら、彼のブレーンであった長野主膳の個人的恨みによる粘着質な迫害がひどく、京で活躍していた論客が根こそぎ殺されてしまったのです。
安政の大獄での追及は、携わった公儀役人でさえ、行き過ぎでないかと躊躇するくらいであったといわれるほど、長野主膳の個人的恨みによる強い意向で、政治的思想に関係のない家族まで牢に繋ぐなど、行き過ぎたものだったのです。
これが、志士の憤激を買い、天誅を加える・・個人的復讐、テロ化していったのです。
それまでは、ただ意見交換のための右往左往でしかなく、勤皇の志士と言う概念もなかったのですが、彼の個人的恨みによる弾圧実施が、思想家の殆どすべてを勤皇の志士へと変化させ、幕末をテロ社会に変質させ、騒乱に突入させてしまったのですから、彼こそ歴史に残るマイナスの大人物となるべきでしょう。
テロとして大規模で歴史に残る事件では、水戸浪士による桜田門外の変ですが、これは氷山の一角でしかなく、京の都では、志士による天誅事件が相次ぎ、京洛を剣戟に明け暮れるテロの巷に変えていたのです。 (天誅組の語源でしょう)
幕府関係者もこの動きには、内心同情していたと言うか黙認状態でしたから、当初は天誅のやり放題と言うところで、京洛は、物騒極まりないものになっていくのです。
    「東山36峰、静かに眠る丑三つ時突如起こる剣戟の響き・・・・」
と言う講談の場面です。
勿論これは、優美な東山連峰をうたった
      「布団着て寝たる姿や東山」
と言う俳句を、下敷きにしたセリフでしょう。
このころに活躍したテロリストで有名なのは、人斬り以蔵の異名を持つ岡田以蔵等でしょうか。



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