04/27/06
ピューリタン革命の意義5(名誉革命の語源)
マルチン・ルターの騒ぎのときは、後にカルバンが勤労が尊いものとし、これに基づく富の蓄積は許されると説いて、思想上の「解」を出して哲学的・・宗教的には、一応解決したのです。
(以後免罪符発行の必要性が、なくなりました。)
ただし、政治的解決は、後の30年戦争終結時のウエストファーリヤ条約(1648)まで、持ち越されます。
マルチン・ルターは火をつけただけでしたが、カルバンについては、キリスト世界を変えた大功績者ですが、後に紹介します。
フランス革命も自由・平等・博愛などの名分がありましたが、イギリスでは、これといった名分がないまま騒乱にはいり、哲学的「解」がないママ騒乱が終わったのです。
信長のような新しい時代精神を、誰も打ち出せなかったのです。
このために、この期間の事件が不名誉な革命(ただの騒乱事件)として、記憶され、これとの比較で、次の革命を名誉革命と言うようになったのではないでしょうか?
(これも、私の珍説ですが、次の無血革命・・政変を、何故「名誉」(Glorious Revolution) 革命と言うかの「解」でもあります。)
ついでにいいますと、ジェームズ2世を追い出して、メアリー2世とその夫オレンジ公ウイリアム3世を共同王として迎え入れたのを、何故革命と言うのかも疑問があるのです。
無血革命であったから、これを讃えて、名誉革命(Glorious Revolution)というようになったと言うのが普通ですが、この説明はおかしいでしょう。
この程度の政変を革命というならば、クロムウエルを追い出してチャールズ2世を迎え入れたのも革命と言わねばならないでしょう。
その他にも、どこの国にもこの程度の君主入れ替え事件は、いくらもあります。
我が国でも信玄が親の信虎を駿河へ追い出したり、斎藤道三が息子の義竜に殺されたりといくらもあるのです。
歴史上の政治的意義が全く違うと言うことでしょうが、結果的な歴史的意義の有無・大小で革命か政変かの区別をつけるのでは、おかしいでしょう。
矢張り社会を揺るがすほどの戦乱の結果、政権の支持層が入れ替わった場合だけが、革命とか、次の時代が始ったと言う評価になるのでしょう。
話を戻しますと、ピューリタン革命では、哲学的「解」がなかったけれども、この10数年に亘る騒乱で古い時代の骨格がガタガタになってしまった点が、後のイギリスの発展に多大な効果をもたらしたように思えます。
兎も角、フランスのようなブルジョワジーによる革命でもなく、いろんな階層支持層の入り混じったごった煮の騒乱でした。
長い内乱になるのは、それぞれの支持層が出来上がっている場合に、(内部格差社会の成立)支持層の利害は簡単に解消できませんので,争闘が長引くのです。
ピューリタン革命では、既にいろんな利害対立の支持階層が生まれていたのに、その意義を明確に意識しないまま入り乱れて戦ったので、騒乱が却って長引いたのでしょう。
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