04/26/06

ピューリタン革命の意義3(チャールズ2世の誤解)

本来革命と言うのは、社会構成員の変化による地滑りを政治に反映させるための地殻変動の大地震のようなものだとすれば、(私の独自の意見かも知れませんが・・・・。)折角大騒ぎした以上は、      「経済事象の変化に伴う社会変革をどうする」
と言う「解」を見出すべきだったでしょう。
何のために、どの階層のために内戦していたのかの「解」も見出せないまま、この革命?騒乱時代は終わりを告げるのですが、この騒乱を通じて着実に時代は回転してしまったのです。
日本の応仁の乱も、理念なき訳の分からない内戦で、ただ混乱しただけでしたが、その間に時代は着実に転回して行ったのです。
大和朝廷の権威が全く地におちてしまい、これに寄りかかる足利政権の権威も地に落ちてしまっていたのは、最後に朝廷や将軍家の権威を問題にしない信長の出現で明らかでした。
ぴゅーりたん革命も、意識的解は見出せませんでしたが、旧来の王権の権威が落ちていた実状は同じでした。
表面上の「解」が見出せないママうやむやに終わったと言う意味は、チャールズ2世は、何の約束もなく、(無条件で)歓迎されて戻り、王政復古宣言をしたことにあるのです。
実は、チャールズ2世が復位できたのは、2代に亘るクロムウエルの独裁に懲り懲りした議会が復帰を歓迎してくれたので、戻れたに過ぎないのですから、本来は王権が昔のままに復活したのではなく、議会の支持あってこそ成立する王権になっていたのです。
ここのところが理解できていなかったので、チャールズ2世は、矢張り専制政治が好まれるのだと誤解して?国教会優先の専制政治に邁進し、さらに次のジェームズ2世も同様でした。
これには、国民全部が嫌気をさして、次の名誉革命に繋がるのです。
足利義昭が、信長の後援で京にもどれたのですが、何とか旧の権威を復活させようとして、画策したので、信長に追放されてしまったのと似ています。
名誉革命では、こうした誤解が生じないように、明確に権利の章典(1689)が制定され、オレンジ公は、就任前にこれを受け入れさせられます。
(受け入れを条件に就任できたのです。)



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