04/25/06
ピューリタン革命3(内戦の勃発と鉄騎隊)
ジェームズ1世の次、チャールズ1世(位1625〜49年)も、同じような強権で
政治を執ったため、議会は権利の請願を採沢し、国王に提出します。(1628年)
@・・・・王は議会の承認無しに税を徴収してはいけない
・2・・・・王は、法律を無視して国民を逮捕してはいけない
これに対し、チャールズ1世は、一旦承認しますが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行いました。
議会を相手にしないと言う態度で、開き直って、11年間も議会を召集しなかったのです。
この間専制政治をしていく途中で、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードの提言でスコットランドにも国教会を強制ようとしたところが、これに抵抗する反乱が起こり、どうしても戦費調達に迫られたチャ−ルズ1世は、議会を開きました。(1640年)
時間が解決するだろうと思っていたのかもしれませんが、11年たっていたのですが、議会の考えは変わらず、意見対立のまま、すぐに解散してしまいました。
(これが史上短期国会と言われるものです)
ところが、スコットランドの反乱はおさまらず、戦費ほしさのために、国王は議会と妥協するするしかなかったので、再度召集したところ(これが長期国会です)議会は、伝統的に増税反対の陳情を受ける立場です。
何とかしなくてはならないのも分かると言う意見もあれば、この機会に王権に対抗したい勢力その他が入り乱れ、利害対立して無茶苦茶になってしまったのです。
大きく分ければ王党派と議会派(それぞれが細かい意見の対立がありました)、入り乱れての内戦と言うよりも騒乱に発展していくのです。
開戦当初は、王党派軍が優勢でしたが、そのうちオリバー・クロムウエルの率いる鉄騎隊が強くて、最後は議会軍が勝利を収めて共和制が宣言されるのです。(1649年国王処刑)
共和政宣言をもって成立した共和政イングランド(1649年-1653年)は、さまざまな内部対立を抱えていましたが、長年の戦乱の過程で軍人が発言権を持つようになって来るのは当然です。
(ナポレオンも、そうして頭角をあらわしたのです。)
国王処刑後の共和制議会・・ランプ議会では、先ずは長老派が追い出され、次いで水平派も追い出され、独立派の天下となります。
(追い出された長老派は、後にスコットランド軍と一緒になってオランダにいた、チャールズ1世の息子・・チャールズ2世を担ぎ出しての抗戦が始ります。
これが、1651年9月のウースターの戦いで勝負がついて、チャールズ2世がフランスに亡命するまで続くのですから、内政がかなり長引きました。
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