04/19/06
世界宗教の非合理化(非功利的社会)
農業社会では、目先の利益よりも先ずは直ぐに効果の現れない、草むしりなど常日ごろからの陰日なたのないまじめな行動が、尊ばれるようになるのは当然でしょう。
何しろ林業であれ、水稲栽培であれ、今日明日の草むしりやその他の手入れが、秋の収穫にどのような効果があるのかは、直ちにはわからないものです。
ですから、自ずから行動基準は、目先の利益・・目先でなく長期的でも功利的な行動は、考えるだけ無駄に近いものですから、一々これがどういう効能があるかと言う疑問を持つこと自体卑しむべきこととなってきたのです。
「つべこべ言わずに、先ず、草むしりに精出しなさい」
と言うア・プリ・オリな哲学です。
修行であれ、何であれ、その効果を質問することすら許されません。
先ずは、雑巾がけし、師匠の後をついて歩くことなど、すべての分野で、これが強要されるのです。
こういう時代が1000年も続いたので、目先(あるいは長期)の
「損得勘定で行動する商人は卑しい」
ものだ。
と言う固定観念が、生まれただけのことです。
お金や名誉に執着しない職人気質を尊重する気風なども、その延長で生まれたものでしょう。
あるいはいあmでもオリンピックなどでも金メダルをとった選手が、
「無心で競技した」
と言うのが決まり文句ですが、何かを期待して頑張ること自体が許されないような、奇妙な錯覚があるのです。
実際は、各種成功のガンバリズムの根底には、目標に向けた踏ん張りがあってこそ、成り立つ筈ですが、公式発言になると、
「無心にただ実験していたら、こういう成果が出た。」
などの発言が好まれる下地です。
。このように、誰もが認めるような道徳と言っても、実は一定の生活習慣が続いた結果によるところが多いのです。
泥棒がいけないのは、洋の東西を問わないと言っても、洋の東西を問わずに私的所有権が発達したからに過ぎません。
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