04/18/06
世界宗教の非合理化と改革8(独の場合1・・・政治力学とアウグスブルクの和議1)
政治力学と宗教戦争の関係について、もっと遡ると、ナントの勅令(1598)に先立つアウグスブルクの和議(1555)の遠因となる戦争も、フランス国王の働きかけによるものでした。
マルチン・ルターの騒ぎのときに、ちょうどドイツとフランスはイタリア戦争中でしたので、フランスは敵国ドイツの戦力を削ぐために、オスマントルコのスレイマン1世をけしかけてトルコによるウイーン攻略戦に発展したものでした。
ちなみに、プロテスタントとは、トルコの皇帝スレイマン1世にウイーンを包囲されたときに、孤立した神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、第1シュパイアー帝国議会(シュパイエル国会、1526)でルター派諸侯の協力を得るために、ルター派を認めたことがあるのです。
ところが、カール5世はオスマントルコによる2回目のウイーン包囲を自力で切り抜けた後に(1529)第2シュパイアー帝国議会で、3年前の承認を取り消して、再び禁止してしまったのです。
諸侯が、これに対し、抗議書(プロテスト)(1529)を提出したことから、プロテスタント(抗議する人たち)と呼ばれるようになったものです。
これによる長年の内戦(シュマルカルデン戦争)の結果、相互にこのままでは国が持たないと言うところから(疲れきって)1555年アウグスブルクの和議となるのです。
(文字通りの和議です)
このようにカトリック側の国王と言っても、宗教問題での立場を守るよりも、ライバルの国の現権力の足を引っ張る方が先でしたから、西洋の宗教改革派の伸張は、日本に当てはめると、藤原氏や上皇が武士を利用している間に、武士が力をたくわえていったのと似た構図です。
何時の世にも、一定の勢力を利用しているとその利用されている勢力の方が、力を蓄えることになるのです。
大手社員が下請けばかりを使って自分で働かないでいれば、下請けの方が技術力を持ってしまうのも同じ構図です。
近代になって、宗挙改革運動が激しくなったのは、その前提としての諸侯間や国王間の闘争や離合集散が激しかったために、却ってその紛争に便乗して勢力を伸張できたのです。
個人がそのまま集団化して、宗教改革運動になったのは、ドイツ農民戦争くらいでしょう。
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