04/17/06

世界宗教の非合理化と改革6(仏の場合1・・・ナントの勅令1)

ついでにイギリスやフランスの場合を見ておきますと、フランスも、基本的には農業国でしたから、商業化の洗礼を受けるのが遅く、このため宗教戦争では、カルヴァン派が浸透してから本格的な宗教戦争が始るのです。
後にも書きますが、ドイツのマルチン・ルターによる免罪符反対宣言(1517)によって始った騒動から比べると、約半世紀遅れてユグノー戦争(1562〜1598)が起こるのです。
このユグノー戦争の大義は宗教戦争でしたが、政治力学的には、3人のアンリによる権力闘争があって、その大義として、当時盛んになっていた宗教改革運動を巻き込んだ戦争というべきだったでしょう。
04/13/06「政教分離4(宗教団体の利用)」のコラムで書きましたが、政治家は自分の陣営に引き入れるために、宗教に関する旗印を掲げたのは当然です。
三つ巴の争いのために断続的に戦争が続いたのですが、プロテスタント(ユグノー)のアンリは,国王に即位するに際しての政治力学上の妥協を経て、即位後、カトリックに改宗(1593)しました。
これがブルボン朝初代国王となるアンリ4世です。
その代わりと言う訳ではないですが、1562年以来のフランスの宗教内乱(ユグノー戦争)に終止符を打つため,ユグノーにもカトリックとほぼ同等の権利を与えることとしたのが、有名なナントの勅令(1598)です。
さらに個人としての信仰の自由も承認し、その点で,神聖ローマ帝国の内戦収束会議であるアウグスブルクの和議よりも,一歩進んだものであり,フランスの宗教戦争はこれで一応の決着をみたのです。
ナントの勅令に先立つアウグスブルクの和議(ドイツ)は、シュマルカルデン同盟軍と神聖ローマ帝国皇帝との内戦を収束するために、1555年、同盟側諸侯と皇帝側との妥協で成立したものです。
この会議は、諸侯と皇帝の妥協によるものでしたから、個人の信仰の自由は認められず、諸侯の支持する宗教に従うことになっていたので、言うならば諸侯単位での信仰の自由を保障したと言うべきものでした。
(ヘンリ8世によるイギリス国教会の分離独立も、この次元でした。)
アウグスブルクの和議(1555)の時点では、まだ個人が政治主体として参加していない時代だったと言えるでしょうか?
あるいは、既にかなりの個人が参加していたとしても、まだ公のテーマとしては掲げられない時代だったと言えるでしょう。



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