04/11/06

民族国家・・主権国家の危険性

話を戻しますと、こんな具合で、自国だけで出来上がった論理・・法を振りかざして他国と付き合う時代(主権国家)は、喧嘩の種が尽きなくなるのが普通です。
子供でも、自我に目覚めたばかりのときは、喧嘩が多いものです。
ちなみに東北アジア・・日中朝3ヶ国は、江戸時代以降同じ儒教道徳になっていましたから、この間に戦争や争いが起きていません。
話を異民族間の交易ルールに戻しますと、昔は、はるか彼方の異民族を取り締まれるような権力が有りませんから、(これを達成したのは、モンゴル帝国くらいでしょうか)せいぜい
  「善行を積めば神の国へ行き、或いは来世はいいことがある」
と言い、言うことを聞かない者に対しては、
        「地獄に行くぞ!」
くらいの、脅しをするしかなかったのです。
こうしてルールを守らせるためには、天国と地獄の思想が、現在の刑法の代わりに必要だったことが分かります。
他方で、キリスト教がアルプスを越えて農業社会に適合して行ったことを、03/03/06「商から農への転換7・・・西洋の場合3(キリスト教の多神教化)」その他のコラムで紹介しました。
農業社会化が進むと、域内の一寸した農作物の交換が中心になってきますので、異民族間の交易はむしろ例外現象になってきます。
こうなると、同一民族間の気心の知れたもの同士の取り引きが中心ですから、異民族間の市場取り引き専用ルールの必要性が薄れてきます。
同じ社会内の秩序破りは、その社会内の世俗のルール・・王権や封建領主権で間に合うのですから、広域支配者の必要性がなくなります。
これが、農業社会で発達した封建制・・・地方小権力割拠の法的・経済的基礎だったでしょう。
そうなると、農業社会では、現実支配力を超えた超広域で流通するべき処罰法・・宗教で言うところの罪・処罰(あの世での制裁)は、何のためにあるのか分からなくなって行きます。
そこで、支配権力側から見れば、「証拠さえなければいいだろう」と言うあくどい者に対するブレーキ役になってもらう役割が期待されるのです。
袖の下を渡そうとしたら、「イヤ、天が見ている」と断ったエピソードなど)としての期待・・・・結果的に現実支配者の制定法を見張るものがいないからと言って破らないようにする動機付け・・遵法精神を涵養するための役割に利用するのでしょう。
こうした世俗権力と合体した役割だけではどうにもならないので、挙句の果てには、原罪と言うわけの分からないものに変更されていきます。
あの世の概念は、本来は秩序維持機能のためにあったのが忘れられ、免罪符や、修道院でのお祈りが重要になってきて、「信仰心」と言うものばかりが強調されていきます。
罪滅ぼしに寄付したり、何回おまいりしたとかわけのわからないことで、天国へ行けるようになるのですから、次第にまともな話から遠ざかってしまうのです。
現世の苦痛を緩和するために、天国や神の国、わが国では、あの世の極楽浄土をイメージさせることで、現実の苦悩・・失政でしょう・・・を誤魔化す機能に転化していたのです。



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