04/10/06

宗教と土俗信仰の違い2

こうした世界宗教を日本語の「宗教」と翻訳するのは、誤解のもと(原因)になるでしょう。
日本語の宗教は、空海以来、信仰・修行と結びついたものであって、むしろ合理的な戒律・ルールは背景に退いたものなのですから、似て非なるものなのです。
これを、世界宗教の翻訳にあてたのは間違いではないでしょうか?
ただし、これは理念型を言っているだけであって、後に書くようにキリスト教も近代の合理主義精神によって誤りを指摘されても、これを認めなかったころから、非合理的団体に転落していたのですから、明治の初めに、キリスト教などを日本の信仰に基づく宗教と翻訳したのは、現象的には、合っていたのです
私に言わせれば、世界宗教とは、もともとは、超常現象への信仰や畏れを強調するものではなく、この世で生きるルールの教えであって、まさに現在の法の元祖だったのです。
キリストやユダヤの教えは、俗世界そのもの生活万般の規律の謂いだったのです。
これが後に聖俗が分離されるようになったのは、各世界宗教が現実的規範能力を失う過程で、生き残りのために土俗信仰と融合していき、その非合理部分に特化したからでしょう。
イスラムの教えが未だに生活万般を規律できているのは、イスラム信者が無智蒙昧なのではありません。
何回も書いていますが、イスラム教が成立したのが、キリストや、仏教、儒学に比べて約千年も遅かったので、まだまだ、イスラムの教えと実際生活との間にそれ程の乖離が生じていないことに、その理由があるでしょう。
儒学もキリストのようなかっちりした体系ではなかったので、その時代時代の修正が可能であったところが、最近まで影響力を保てた所以です。
朱子学や陽明学の説明で、儒学の変遷については、11/19/05「朱子学とは1(南無阿弥陀仏だけでない浄土宗)」等でかなり書きました。
各地で、土俗信仰との融合が進む一方で、実際政治に始まり、哲学や法律その他の学問が次々とキリストや仏教から独立していく経過については、もう少し後に書きましょう。
当時は絶対的な権力がなかったので、(繰り返しますが、市場参加者=異民族間に通用する権力のことです)説得力にしか、その担保はありません。
そこで、この人倫の道を説くために、世界の成り立ち・・神が造りたもうた世界があって、その一部としての人間界と言う大仰な世界観が、どこでも必要になったのです。
その神の秩序に反すると、神から大きな罰が下ると言う仕組みです。
儒学ではそういう地獄関係の話が少ないのですが、儒学道徳は、異民族にまたがるルールではなく、国家権力内・・一つの社会内のルールであったから、超能力による処罰の必要性がなかったのでしょう。
一族の紐帯の大切な社会では、日本の村八分に似た制裁程度で、充分な処罰効果があったのです。



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