04/06/06
治山治水の必要性4(水運)
それに、京都郊外の保津川の渓流下りのように、川底が浅くあちこちに岩がごろごろしている川が多いこともあって、喫水の深い船の航行に向いていない川が殆どです。
殆どの地域で、川の水運利用は、筏流しや山から下る場合ていどが主な用途だったのです。
結果的に北前船などで有名なように、海運が大動脈であって、川の水運は、ホンのちょっと区間を枝のように遡るだけでしかなく、水運としては大きな意味を持たなかったのです。
京の伏見までの水運が有名ですが、これは大阪から京までは、山から直接の水でなく、琵琶湖の水が宇治川を経て淀川になっている関係で、比較的なだらかな流れを利用したものだからこそ、成り立った例外です。
しかも先に、都が出来ていた関係で必要に迫られて、高瀬川などの開鑿が人工的にされたことも大きいでしょう。
上記のように日本の川で水運を利用したとしても、地域経済に貢献するだけですから、河原に石垣を組んで城市を築くなどのことは、日本では考えられなかったことです。
こうして、大きな都市は海に面して出来上がっているのです。
人口が増えて、大きな川の近くに住むようになるまで、洪水被害は関係がなかったのです。
早くから、川の近くに大勢が住んだ例では、後白河法皇を悩ませた京の鴨川でしょう。
あの程度の大きさの川が、毎年の洪水で「宸襟を悩ませる」大河だったというわけです。
それでも「悩ましている」だけで、これといった治水工事をしたわけでなく、幕末に至るのですから、平和な国です。
と言うわけで、治山治水対策の有名な所では、ずっと時代が下がって信玄堤程度しかないのです。
濃尾平野なども古代(例えば壬申の乱のころ)には、尾張の国にはそれほど人がいなくて、美濃の国が中心でした。
古代から割に早く開けた濃尾平野では次第に下流に人が定着し、大河周辺に人が住み着いたので、この苦労が輪中の工夫になっているのですが、川っプチに町を造りません。
或いは少しでも高台に住んだ知恵が、伊勢長島・岐阜羽島などの地名になっているのでしょう。
(新潟でもそうですが、内陸にある「・・・島」の地名はそういう歴史があるのです。)
長良川の改修工事を、島津家がちょっとやらされれば歴史に残る大事件です。
現在の水害と言うのも、私が子供のころには誰も住まないし畑にもならなかったような広い川原の真ん中に、土木工事で堤防を無理に作って、水流ぎりぎりまで人が住み、耕すようになってからのことでしょう。
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