04/06/06

治山治水の必要性3(水運と河港都市)

水田には、川の水が必要と思うでしょうが、大きな川から水を引けるようになるには、かなり土木技術が発達して、井堰を築造できるようになってからのことです。
利根川のような大きな川を堰止めて、井堰を作れるようになるのは、近代的大土木工事が出来るようになってからのことでしょう。
それまでは、山すそから流れ出た小川をせき止めて灌漑に利用するくらいが関の山(関の山の語源かも、知れません)でしたから、大河になると殆ど利用できなかったのです。
実際には、大川の流れ全部をせき止めなくとも、一部だけでも石を並べて、そこに竹やその他の物で補強して、水流の一部だけでも誘導することが可能ですから、全くできなかったとまで言うのでは有りません。
本当は、かなり時代が進まないと、そこまでする必要がなかったと言うことでしょうか?
04/17/04「戦後の農業政策3(農地解放と土地改良法1)」以下連載しましたが、それまでは、一つの水田と言っても5〜60坪〜百坪の小さなものが普通で、1反歩までまとまった土地の方が少なかったのです。
棚田などは、その程度の大きさでしょう。
殆どの場合小さな水流をせき止めて、そこから細い水路で水を引いていたのが普通でしたから、大川に近づく必要がなかったのです。
昨夏、国立歴史博物館へ行って「水辺」の縄文人の生活の発掘成果を見てきましたが、川の水で晒してドングリなどのアク抜きをしているのですが、その川幅たるや、ほんの5〜6メートル程度の(山すそから湧き出したばかりの)湧き水を利用したものでした。
農業を基本とした生活の場としての川は、そんな程度で足りるのです。
これに対し、河港都市・・商業を基本とした社会では、川っプチに石垣を築いて城壁を作るのが普通ですから、(岸壁は船を着けるための設備です)川の管理は必須でした。
細長く延びた日本列島では、関東や濃尾平野以外は殆ど山が海にせまっている地形です。
その上、川と言っても、細い列島の尾根から流れ落ちる川が殆どですから、急流が殆どで、(誰の言葉か知りませんが、明治のころに来た外国人のことばに、「日本の川は、川と言うよりも瀧と言うべきだ」といったとかが有名です)大陸諸国の河の様にゆったりと流れていません。
このため、動力源のない時代には、舟で遡上するにはものすごいエネルギーが必要で、荷物を積んで遡上するには向いていないのです。



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