04/10/05

不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)

中国では、秦の始皇帝が全国統一後に「封建専制独裁」を樹立し、以後「漢承秦制」思想で、歴代各民族(異民族支配のときも含めて、)は秦の創始した専制王制の継承に終始していたそうです。
ところで、西洋の絶対君主に対して「東洋的専制君主」と言う熟語を聞きますが、「封建専制独裁」と言う熟語は聞き始めですが、みなさんお聞きになった方がいらっしゃるでしょうか?
共産主義者の好きな、プロレタリヤ独裁をもじったものかもしれません。
流石は、まだ共産主義を放棄しない中国の学者の学者らしい表現です・・・?
それにしても、中国の長年の硬直した政治体制を表現するのに「漢承秦制」とは、うまく表現したものですね。
わが国では、時代の変改に応じて支配層が入れ替わり政治体制も変わってきたのに、中国では何回王朝が倒れても、何故同じ体制の繰り返しなのか疑問に思っていましたが、この熟語だけで、たちどころに氷解と言うわけです。
この思想が邪魔したのか、旧体制そのままで切り抜けようとしたのが、うまく行かず半植民地になってしまったのでしょう。
清朝は、日本よりも早く西洋列強に接して、より早く新時代への適応の必要性を理解できた筈ですし、その基盤である民法制定の必要に目覚めていたのです。
しかし、後から気付いた日本では朝野を挙げて洋風化に邁進した結果、明治31年に民法典が成立したのに対し、清朝では大清民律草案で頓挫し、その後の中華民国でも民法案の下準備で終わったのは、その前提たる社会体制の変革をする心構えがあったか否かによると言う訳です。
清朝では皇帝およびその周辺支配層にあっては、不平等条約や領地の一部割譲があっても自分たちの地位保全ができるかどうかが最大関心事であって、国民が苦しむかどうかに利害がなかったと言う視点です。
こうした視点で見直してみますと、日清戦争敗北後になって、ようやく康有為の変法自彊策が上書され、この建策を容れた光緒帝による戊戌の勅令となるのですが、その段階に至っても、実力者西太后は清朝を危うくするかどうかが重要関心事でしたから、民主化するこの策を、受け入れることが出来ず、光緒帝を頤和園に幽閉してしまったのでしょう。(戊戌の政変)
ただし、西太后については、10年程前に猿之助の演出、藤間紫主演のお芝居を見ただけですので、大したことは知りません。
これに対し、日本では徳川家が自己保身のために列強に譲歩したのではないところが大きな差でしょう。
国力の差が大きくて、仕方なしに不平等条約の締結になったのですから、江戸末期に締結した不平等条約の改正を熱望していました。
国民挙げて富国強兵しかないと言う意識になっていましたし、そのためには社会実質の変改も辞さずに、民法典成立の必要が叫ばれていた点が大きな差であったようです。



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