04/09/05
夫婦別姓24(夫婦別氏の機能変化3)
江戸時代までは、妻は実家の氏で表示されていたことを、03/25/05「夫婦別姓6(本音と建前の歴史)夫婦別氏の歴史1」以下の連載で紹介しましたが、夫婦別氏といっても、大きな組織内での識別機能でしかなかったのです。
通い婚までの時代は別として、江戸時代ころの別氏と言っても、大名家内の話であって対外的には前田家の何がし夫人で良かったのです。
要するに妻の氏は、一定の集団内で「どこそこから来た人」と言う程度の意味でした。
真田幸村の妻が大谷氏と呼ばれ、武田勝頼の母が諏訪氏と呼ばれたのは、真田家内、武田家内での識別機能でしかなかったのです。
妻の氏は対外的表示ではなかったのですから、明治になって取引の当事者として昇格するのは無理があったのです。
明治維新後、開国・条約改正に合せて民法制定となってくると、民法は取引当事者をきっちり決めなければ成り立たない仕組みです。
従来の夫婦別表示は、家庭内・・・・・大きくは大名家も含みますが、いずれも閉鎖社会内の識別です。・・・・の識別機能でしかなく、対外的識別機能としては、弱いから元々無理があったのでしょう。
そうした本当の意味もわからない単なる復古主義者や形式主義者に迎合して、表向き中国渡来の律令の貫徹を目指した明治政府は、中堅農家の反発を受けるや、待ってましたとばかりにすんなり引っ込めたのです。
こうした復古主義者の要望を表向き取り入れては、「うまく行かないねえ・・」とばかりに、次々と反古にして行った明治政府のしたたかさについては、09/24/03「教育改革・・・・明治維新と学制改革(学制) 2(復古政策)」以下のコラムで紹介しました。
中国が開放経済になったといっても、法制度の整備が追いつかないので進出した企業は戸惑っていると言う報道に接しますが、明治期も開国した以上は、国際取引に適した人材の育成や法制度の整備に追われていた時代でした。
それが出来ないと、不平等条約と言われた幕末に締結した各条約の改正が出来なかったのです。
明治31年の民法典の制定は、こうした条約改正の悲願に背中を押されて成立したものでした。
夫婦別氏の歴史は、このように同一集団内の識別機能でしかなかったからこそ、明治維新で開放経済に移行し、取引社会が始ったときには別氏を維持する意味がなく、同氏論のほうが合理的であった事と人口の大多数を占める階層の要望でもあったので、すぐに採用になったのでしょう。
関連ページリンク
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