04/09/04
地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)
明治5年の農地売買の自由化と、直ぐ翌年の明治6年地租改正と言うのは、あまりにも怪しいではないですか?
すでに書きましたように有史以来といってよいほど、世界中で農地の流動化を政府は禁圧するのが常識でした。
これ程の大問題を、たいした議論もないまま農地売買の自由化を決めたのは本当は大変なことでした。
問題が大きすぎるので、問題提起することなくこっそりやってしまったというところでしょう。
地租改正は、表向き財政難を理由にしていますし、どの本でもそのように書いていますが、私はいつ読んでも米と同じ額のお金を納めさせるなら、(増税でない限り)どうして政府財政が助かるのか、理解できませんでした。
本音は別のところにあったと理解すれば簡単です。
こんな見方は、私の思いつきでしかしかなく、どこの本にも書いていないと思いますが、歴史教科書が、これに全く触れずにずっと来たのは、余りにも重大過ぎてうっかり書くと教科書検定に通らないからかもしません。
教科書検定の問題点は、別に機会があれば書きますが、我が国の学問の自由・ないし国民の思想統制に大きな影響を及ぼしていますよ。
明治5年、6年といえば、戊辰戦争の戦後処理の直後です。
しかも、当時貨幣経済に適応できない主な地域は明治維新で賊軍側に付いた地域が殆どだったのです。
賊軍側の地域では貨幣経済に対応できないことは百も承知で、(熾烈な反対運動を無視して、)断行したのです。
ところで、先年新潟の北方博物館と言う大地主伊東家の屋敷跡を見学してきましたが、その当主は、明治以降に徐々に土地を買い集めて所有田畑1370余町歩、山林1000町歩を超え、差配人78名、蔵所58カ所、小作人2800余名を数え、作徳米約3万俵と言う巨大な地主になってしまったのです。
行ってみて、「大したものだ!」とは思いましたが、(運営者は自慢のつもりでしょう。)「少しお金が溜まったら買い増していく」と言う子供じみた発想で終始して、よくそこまでやったものだと驚きました。
そう言えば、新潟出身の田中角栄氏も、目白の私邸は当初小さかったのですが、徐々に買い増して晩年の(現在も同じだと思いますが・・・・)豪邸になったと、総理になったころの新聞で読んだことがあります。
「子供じみた」と言うと新潟の人に怒られるかも知れませんが、1町歩の農家が頑張って、2〜3町歩にしたと言うなら、成功者と言うところです。
その気持ちのまま、天文学的規模にまでやってしまったとなると、篤農家としての賞讃よりも、「やり過ぎ、子供っぽい」と言う印象になってしまうのは私だけでしょうか?
単に規模を従来型のまま大きくするだけで、大規模でなければ出来ない生産革命をするでもなく、(もちろん少しは集団のメリットを活かしていますが、・・)基本的精神としては、小作人を増やして喜んでいるだけですから、(私もそういうところがありますので、)「・・・?智恵のない話だなあ」と言う印象で帰って来ました。
要するに新時代に対する「志(こころざし)」がないのです。
話がどんどん横へそれますので元に戻しますと、こう言う人があちこちに出て、(商品経済に縁のなかった北陸、東北、山陰に多いですよ)自作農が転落していくことになり、イギリスの囲い込みと結果的に同じ効果を生み出したのです。
こうして政府の思惑どおり、農村から都会労働者への供出が急激に進み、富国強兵の基礎(兵士にも応募しますよ)・産業革命が進展したのです。
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