03/13/08

政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)

まして、武士道などと言いだしたのは、儒教が実学として役に立たないだけでなく、武士も武士(戦闘員)として何の役にも立たず、実務から締め出されるようになった江戸時代の特殊閉塞状況下で、「武士は食わねど高楊枝」の精神で、観念論・美学として発達したのです。

美学と実学とは違います。

武士道その他の美学の成立については、06/18/04「男の沽券・面子4(恥の文化・・・菊と刀2)廃刀令」前後で連載しています。

徳川体制川草創期には、政権安定のための思想的基盤として、政治の仕組み・・官僚機構の理念として儒教道徳の確立は便利だったので採用されて、そこに人材が集中されたのです。

聖徳太子のころには、生活も単純で、政治制度も原始的でした。

わが国にとっては、何か知的なものでしかも、宗教的色彩がある佛教が最適として導入・利用されたのですが、社会が徐々に発達してくると佛教の哲理を極めても政治組織の運用や実際生活の具体的指針としては、間に合わなくなったのが平安時代中期から末期以降のことです。

社会生活がかなり具体的になってきたので、宗教的抽象的概念では、日常行動の指針・・マニアルとして実用的でなくなっていたのです。

そのころから、現世の生活指針としての役割を終えて、来世向きにしか役立たなくなっていたということでしょう。

この過渡期が信長まで続き、信長によって、無用なものとして一掃すべきだという思想・・叡山焼き討ちがその象徴ですが・・・になったのです。

その後を継いだ家康は一掃はしませんでしたが、葬式など儀式だけに宗教の存在意義を限定したのです。

そのころまでには、宗教は現世の道しるべ・・マニアルつくりから撤退して来世への道案内しかしていなかったのですから、実力相応になったのです。

こうして、それまで知的産業を引き受けてきた佛教界への人材新規参入が無くなり、人材が枯渇し、他方で儒学者から新井白石、荻生徂徠(1600年代後半から1700年代前期まで)などの人材が輩出し、佛教界は知的指導者集団としての地位を失っていきました。

ところで、いかなる秀才でも、専門の教育を受けてないで、新しい事態に対応するのは、馴れない分だけ何ポイントかマイナスです。

運動神経が良くても、イキナリ専門外のスポ−ツをやらされると、元々やっている人の運動神経よりかなり優れていても、以前からの専門家にかなわないのです。

宗教家の天才でも具体的な政治は不向きであったように、儒教の天才?新井白石の時代には、既に法的分野と経済分野の専門的教養が要求される時代が来ていたのです。彼は儒教の碩学ですが、儒教は哲学の中では実用に近いとは言っても、本籍は哲学ですから哲学者が政治・・財政を担当するのは土台無理なのです。

 



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