03/01/08
西洋近代哲学の発展3(大衆の寄る辺は?1)
西洋では、長年にわたる普遍・・存在論争の歴史があってこそ、カントの理性批判があり、ヘーゲルの
「理性的なものは、現実的であり現実的なものは理性的である」
という弁証法が成立するのです。
(弁証法的止揚と言うのですが、私のような素人には、神学大全で有名なトマス・アクイナス同様の一種の妥協説?・折衷説との違いが分かりません。)
当時の大哲学者に敬意を表して、一時的に西洋の哲学界は収まるのですが、これに対して、キエルケゴールは一般的な存在でなく、神の前の個である現実存在と言う概念を打ち出して、いわゆる実存哲学が始まります。
そして、これがニーチェによって、「神は死んだ」(実際はすべての哲学の否定らしいです。)として、実存的存在による生き方・・超人期待につらなるのです。
マルクス主義では、それ自体が絶対的立場・・一種の宗教ですから、それ以外の神は不要・・両立できませんから、信者・労働者は前衛の指導に盲目的に従うと言うことで、一貫しているのです。
ニーチェに「超克しろ」と言われても、新たな顧客となった庶民労働者階級では、もともと主体性が弱いのですから、なおさら無理でしょう。
そこで、・・・彼らの受け皿となったのは、マルクス主義あるいは労働運動に身を投ずるか、ナチズムやファシストの言うとおりにロボットのように、黙々と従うことだったのでしょうか?
ニーチェの哲学を歪曲してナチスが利用できたのは、こうした方向への親和性があったからではないでしょうか?
マルクスレーニン主義体制下にあったロシア・・あるいはファッショやナチズム体制下以外の国民は、どうしたのでしょうか?
自由主義国家でも労働者は、マルクス主義を信奉して労働組合の指令に従っていればそれで解決ですが、それ以外の零細事業労働者、資本家や個人経営者・農民やサラリーマンの寄る辺は、何でしょうか?
戦後実存哲学がはやりましたが、このころは何となく勢いがありません。
サルトルとボーボワールが来日したときには、日本中で大騒ぎしたものでしたが、今どき、大哲学者が来たからと言って大学の大講堂が満員になるでしょうか?
絶対的な神は死に、超人的実存が期待されても、殆どは弱い存在ですから、うまく行きません。
こうした哲学論争は宗教で言えば、修行僧・・プロに任せておくべき分野であって、大衆・・在家信者向けではありません。
2重基準・・・意志薄弱な大衆向けの現在流教義は、どうあるべきでしょうか?
法の世界では、弱者である大衆消費者向けの法律が着々と整備されていることについてはこれまで、09/24/07「割賦販売法3(クーリングオフとは?1)」その他のコラムで繰り返し書いてきました。
法とは仏法の法でもあって、元来は宗教の規律・戒律のことですから、生きていくためのルール制定権を、徐々に世俗権力に奪われてしまった以上は、宗教界では対応できていないのは、仕方がないのでしょうか?
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