03/19/07

情報媒体(活字からテレビへ)2(分際の消滅2)

1昨年だったか、プロ野球近鉄球団の合併吸収問題で、ジャイアンツの通称ナベツネが、会談を求めた選手会長に対し、「多寡が選手の分際で・・・」と言ったとかで物議をかもし、辞任に追い込まれましたが、彼ら年配者には分際・・分相応の境界を弁えることは、絶対に守るべき障壁・・モラルだったのです。
明治の憲法制定論議で、「臣民の権利義務」と言う章の論議で、当時の文部大臣森有礼が、論陣を張ったことを,06/09/03「臣民と国民との違い2(臣民分際論)」で紹介しました.
臣民には、「分際のみあって、権利などない」と言うのが、彼の主張でした。
臣民の権利義務を認めるかどうかで、文部大臣が「分際」にこだわったように、国民主権・・平等意識と分際とは真っ向から対立する概念です。
現在社会で「多寡が・・・・の分際で・・」と言う単語を使えば、せっかく「みんな中流」意識の幻想に浸っている庶民の怒りを買いますので(図星ほど腹が立つものです)、社会から葬られることになったのは仕方がなかったでしょう。
森有礼の主張は、それまでの教養を前提にすれば正しいのですが、教養と言うのは保守主義と同義に近いと言う私の基本姿勢の1例になる議論です。
教養や常識のあるエリートばかりが、社会の指導的立場に立つと、過去に蓄積した知識が思考の基本ですから、社会の進展・革新に馴染み難い・・抵抗的反応をする弊害があるのです。
特に金融取引では、過去のデータ学習能力だけに頼るのでは無理ですから、総入れ替えが必要だと言う意見を繰り返しています。
話を戻しますと、その後テレビの普及によって、庶民もみんなが豊かな生活を知るチャンスが生まれ、分相応の生活・・結局はその境目を意識しなくなったのです。
職人も労務者も結婚式など正式な所では、みんな同じ背広を着て出席しますし、、みんなの意識からして同じと言う時代が来たのです。
また、逆にホワイトカラー層も、普段はジーンズをはくなど生活様式の相互乗り入れが進んだ時代とも言えるでしょう。
こうして、団地住民の「隣がピアの買えば内も買う」式の社会になり、1億総中流意識がうまれてきたのです。
総中流意識はいいのですが、その内実は、ホントの中流ではない庶民底辺層の方が数が多いのですから、そこに無理が出てきます。



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