03/06/06
足利義満は、みずからを日本国王と名乗っていたことを書きましたが、重商主義国家として海外交易していく以上は、2頭立ての馬車と言うわけにいかないのが現実です。
その意味で、公卿社会の期待を背負っていた光秀は、朝廷権力と主君信長の権力が両立できない矛盾に悩んで謀反を起こさざるを得なかったのでしょう。
光秀のクー・デ・ターが直ぐに秀吉に鎮圧されたので(3日天下でした)、そのまま商業主義政権が引き続いたのです。
しかし、秀吉は信長のように論理的では有りませんから、(超現実派です・・・芸術世界のシュール・・・とは違いますが)適当に朝廷をいなしながら政権の安定性を目指していくのです。
その結果、今に至るまで勤皇精神が篤かったとして京雀の人気が高いと言う訳です。
秀吉死後、一種の官僚が育っていましたから、そこは政治家では有りませんから、時代精神に向けて純粋です。
関が原の合戦は、石田光成が西軍の首謀者でしたが、彼はご承知のように「商」の発達した近江出身でした。
(ご承知のように、複式簿記が工夫したのは、近江商人でした)
関が原の合戦は、秀吉以来の重商主義の継続か旧来型の農本主義に戻るかの、路線争いの戦いでもあったのです。
奇しくも東西決戦となりましたが、地域的特性(西軍側には、小西行長など商業志向的政権が多かったのです)が、分かるというものです。
小西行長については、12/10/03「千葉の歴史8(千葉県人と海洋史観4・・勤勉革命)」のコラムで紹介しましたが、戦国大名ではなく、薬種商から取り立てられて大名にまでなった人物です。
この戦いで農民に足場を置く東軍・徳川が勝ち、旧来の農本主義に戻っていき、戦国時代の割拠政治が固定し、封建・・・地方分割支配に戻っていき、3代家光にいたって鎖国となったのは、偶然ではなく歴史の必然とも言えるのです。
戦後長い間、農協の政治力が強かったのも、こうした何回にも亘るゆり戻しが、その都度失敗している歴史、農本主義の根強さからも理解出来るでしょう。
この強力な農協も昭和50年代ころからは、農業本業でなく、土地成金(農を止めた人です)をバックに金融機関としての力に重心をおいていたのですから、最後のアダ花だったともいえるでしょう。
バブル崩壊で、このアダ花が散ってしまい農協の政治力が弱まってきたのは、日本が農業社会から次第に訣別しつつあるというか、離陸してしまいつつある証拠ともいえるでしょう。
江戸時代には、農本主義の完成形の時代ですが、いつの世にも、ある完成型が来れば次の時代の始りが始ると言うわけで、商業資本家が次第に成熟していきます。
しかし、武家政権は元々は生産者である農民を主体とした政権ですから、政権側では「商」をあくまで最下位においてカスみたいな扱いしかしません。
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