03/06/06
ここで、日本の農業社会化とそのゆり戻しについてみておきましょう。
09/11/05「商業社会(王権)から農本主義へ2(権力不要社会へ1)」以来の連載の続きですが、
09/13/05「王権不要社会4」の続きと言う意味の題名です。
天智天皇以来の農本主義への移行が、王権不要社会になり、他方で農民の力を蓄えさせ、農民に足場を置く武士が勃興して来たのが、日本の社会でした。
公武の拮抗状態から保元平治の乱を経て、武家に力関係が傾いたのが鎌倉政権成立というわけですが、これに対しても承久の変、正中の変など朝廷側(王朝)からの政権回復運動が繰り返され、最後が建武の中興で一旦成功と言う筋書きです。
この建武の中興は、(武家からの権力回復闘争が)悪党と呼ばれる新興商人層に基礎を置く楠正成を中心に起こったのも、象徴的です。
建武の中興は、結局農に基本を置く武士層の要望を無視できず、後醍醐帝の敗北に終わって、足利幕府創設になるのですが、その後にも、商業主義の立場からのゆり戻しが何回かありました。
武士とは言え、武士=農に基礎を置かない平清盛による日宋貿易、足利義満による日明貿易傾斜もこの一種だったでしょう。
時代の進展につれて、各地で自前の要求が持ち上がって来ましたが、現場の要求に老舗の平家が対応できず、新興の源氏が着々と地盤を築いて行ったのです。
これが、保元・平治の乱の直前の状況であったことを、09/18/04「源平争乱の意義4(平家の武士としての役割1・・・貴種であるだけ?)」その他のコラムで紹介してきました。
平家は源氏と違って地方に足場を築けず、中央でのし上がった関係で、清盛は天下をとっても地方での勢力扶植にまでは行かなかったのです。
逆に中央の勢威によって、ごり押しした結果、地方では怨嗟の的になることすらあったのですから、政治と言うのは難しいものです。
子弟のスピード出世で、出世しそこなった中級貴族からも恨まれました。
そこで、清盛は既得権にあまり関係のない商・・海外貿易に経済力の源泉を求めざるを得なかったのです。
その結果、大泊の港(神戸港の元祖です)の建設や、福原遷都、安芸の宮島などの大土木工事、(公共工事の元祖です)商業施設に結実していくのです。
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