03/05/06
中国古代社会は、商業で成り立ってきたとしても、中東地域を発信源とする文明が中央アジアを経由する(中国から見れば西域経由の)交易の終着点として栄えていただけでした。
古代から内陸の河港都市国家でしかなかったのですから、文字通り海外に出かけた経験があまりなかったのです。
いつの時代にも交易を担っていたのは、中国人ではなく、西域の色目人でした。
中国人・漢人は、西域から来た文物を買ったり、色目人に売ったりしていただけで、自らペルシャまで出かけるものでは有りませんでした。
このために月氏が西域の入り口にいた時は、月氏が仕入れて漢人に売っていただけなのに、もっと西で産出する璧を「月氏の壁」と誤解していましたし、ウイグル族が信仰しているからイスラム教のことを回教と言うなどの事例になるのです。
ま、日本でも中国から伝わったので、唐草模様と言いますが、実はペルシャ発の文様が、中国経由できただけなのと同じです。
鄭和も代々の回教徒だったし、色目人と言われてます。
中国の古代文明は、西域経由の文化輸入で成立したものですから、内陸の黄河上流で最初の文明が出来上がったのです。
これまでも、09/01/05「中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)」以下で書いていますが、中国の古代文明は独自のものではなく、メソポタミアからの伝播文化でしかないのです。
08/15/05「気象台から気象庁へ(治山治水の必要性1)」以来、洪水対策のコラムから話が飛んでいますが、開封などは黄河の洪水で何回埋もれたか分らないほどですが、中国社会の成り立ちが河港都市国家であったからこそ、幾度洪水に見舞われても、大きな川のほとりに都を造らねばならなかったのです。
北宋の都、開封べん京府が、ベン水のほとりの河港都市でしたし、元だけでなく明も都は当初長江流域の南京でしたが、直ぐに都を大都(北京)に移していますので、商業都市国家であるとしても海外に向かっていないのです。
中国では古代から河港都市国家であったがゆえに、洪水対策が必須だった意味が分るでしょう。
中国が、陸路を通じて西域から文物を輸入している間に、イスラムのダウ船の開発により長距離海上交易が出来るようになると、世界の流通が変わり、中国世界への文物の流通が、陸路から海路に重心が移っていきます。
中国世界内だけの時代には、内陸にいたままで、周辺国から買い付けに来るのを待っていれば良かったのですが、世界が大きくなって来たので、(人口が増えて物流の量が増えて、駱駝では間に合わない時代が来ていたのです。)これではならじとばかりに勇気を出して、初めて中国世界以外に自分で出ていったのが鄭和の大遠征でした。
(とは言っても、回教徒の色目人を隊長にせざるを得なかったのです。)
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