03/04/06

商から農への転換11・・・中国の場合3(鄭和遠征

スペインからイスラムを駆逐したのを、レコンキスタとか大げさに言いますが、国民の多くがイスラムを支持しているのに、これを追い出したのでは、国土回復とは言わないでしょう。
結局は国民の多くがキリスト教に改宗していった結果、イスラム教徒が少数者になりながら支配していたので、イスラムを駆逐したから、国土回復と言うことになるのでしょう。
それにしてもイベリア半島の住民は、他の西洋諸国よりも海洋に面している分だけ海運に向かう血筋が濃いので、彼ら(ポルトガルとスペイン)は、後の大航海時代をキリ開く先兵となっていくのです。
農業主体か商業主体かという面から見れば、商業よりも農業に親近感のある民族だったからこそ、商業業的価値観のイスラムを追い出したのでしょう。
宗教とその基礎をなす職業から見る私の世界構造図式は、梅棹氏の世界史を斜めに切り取る(気候区分による)卓越した図式理解と、これを海洋から見て修正を加えようとする川勝氏の世界理解に対し、全くの素人である私が唐突な思いつきで別な角度から世界構造を見直そうとする何にも分からない素人の大胆不敵?な構想です。
唐時代には西域からの文物で、唐の文化が花開いたことを、既に09/03/05「中国の発展形態の異常性2(ペルシャの影響2)」の連載コラムで書いて来ました。
次の宋の時代にも、孟元老の「東京夢華録」あるいは張沢端の「清明上河図」で描かれる繁華な賑わいは、商業都市そのもののたたずまいです。
勿論わが国とは、清盛との間で日宋貿易をしていますし、中国は古代以来ずうっと商業志向社会であったことは紛れもないでしょう。
モンゴルは言うまでもなく遊牧民であり、地面に定着する農業社会ではなく、交易なくして生存を全く保てない社会です。
元が中国を支配したころにも、世界規模で交易が盛んになり、マルコポーロ外多数の西洋人などが往来した事から分るように、「商」に力点を置いた社会だったのです。
明の永楽帝のころに、イスラム教徒であった鄭和の大船団が(1405―33年に)7回も遠征し、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられていますが、これを遠征と言うのです。
実際は商取引を求めて・武力で世界進出してみたものの、うまく行かず、失敗して、続かなかったものだと私は思っています。
商売は、そんなカサ高い・・・遠征するなどの態度でうまく行くわけがないでしょう。
ちなみに、中国の明代の日明貿易は足利義満がおこなっています。
このように日本の都合で貿易しようと思えば、いつでも直ぐに応えられる体制にあったのが、中国だったのです。



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