03/04/06

商から農への転換9・・・中国の場合

西洋を卒業して、いよいよ中国ですが、中国の農業についてみると、日本では班田収授法などの共産主義的制度は直ぐに崩壊しましたが、中国で長い間有効であったのは、基本的には、専制君主国家でしたから、日本のように各地に根をおろした地方勢力が弱かったことによるでしょう。
中国の政治体制の理想は、04/10/05「不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)」のコラムで紹介しましたように、専制君主体制が理想型であって、万代不易のもののように思われてきたのです。
この傾向については、朱子学を紹介した11/22/05「義理と人情(近松の世界)2」コラムでも書きました。
豪族の力が弱かったので、直接的国家支配の口分田が本気で出来たのです。
この点は、後にも書きますが、戦後毛沢東体制下で、いとも簡単に集団農場に移行できた原因でもあるでしょう。
古代中国は、オアシス国家の延長社会で、(何回も書いていますがメソポタミア方面からの西域流通ルートの終着点でした)都市国家から始ったのではないかと言うのが、私の仮説ですが、時代の進展と共に、西域との交易が細り、徐々に農業社会化して行ったのです。
西域経由の交易が減少したのではなく、中国世界の人口増大で、西域経由交易の比重が下がって行ったのが原因でしょう。
(駱駝で運んでくる量は、多寡が知れています。)
特に黄河流域から、長江流域に政権の地盤を移していった後には、10/04/05「専制君主制の完成2( 思想の変化)」その他のコラムで紹介したように、かなり農業社会化(人口増大)していたのです。
農業社会化しても、各地で地に付いた豪族が成長しにくかったのは、気候が意外に単調で集団的農法で間に合う気候風土であったからではないでしょうか?
日本のように、個人の工夫に頼る場面が少ないのではないでしょうか?
毛沢東以来の共産主義政権で、人民公社という集団農場が簡単に出来たのも、元々個人所有の農業経験が乏しかった歴史・気候風土があるからでしょう。
それと中国ではこれまでも書いているように、商業国家から始っていて、次第に農業社会化に移行してきたもので、商業的要素が色濃く残っていたままだったことも大きいでしょう。
西洋中世の農業社会が従来の商業地域であった地中海世界とは別個の地域で発達し、(古代商業世界の経験がないのです)日本も商業社会に仲間入りして間もないうちに、鎖国した結果、はっきり商業社会から訣別出来たのです。
これに対し、中国や地中海、アラブやその他の地域は、商業社会から始って農業が徐々に発達したのに合わせて商業と農業の混在した社会として、徐々に農業の比重が高まっていったに過ぎない社会の違いと言えるでしょう。



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