03/25/05

夫婦別姓6(本音と建前の歴史)夫婦別氏の歴史1

3月23日・・・2夫婦別姓3(姓と氏の歴史)で氏は引っ越したり新屋敷を構えるたびに新しく名乗っていたと書きましたが、正確には、こうしたいい加減な運用は事実上のことに過ぎませんでした、
正式文書を出すときには、徳川氏も源の何の何某とか、近衛家でも藤原の何の何某とか書いていました。
実生活には、全く関知しないバイリンガル的・ダブル表示社会であったという意味です。
このことは、形式上は律令制であったものの、実務はずっと日本法でやってきた、日本のしたたかさの一つの例ともいえるでしょう。
漢字ばかりの漢文やお経を、そのままで日本人が読んでいるのを見れば、中国人が日本人は中国語が分るのかと誤解するでしょうが、日本風に読み変えて読んでいるだけと言う不思議な社会です。
異言語間の会話に「筆談」と言うジャンルを作ったのは、世界中でわが国だけでしょう。
「同姓娶らず」のルールも徳川時代に一応形式上は採用されていたのですが、誰も守らなかっただけだったことを、01/07/04 「幕府の婚姻禁止の範囲(同姓娶らず)1」コラムで紹介しました。
元々日本では、漢字輸入の当初から姓と氏の区別が実際上はっきりしていなかったのは、前回のコラムで書きましたが、明治維新のときに、戸籍制度を創設して国民全部に守らせようとする以上は、はっきりする必要が生じました。
それまでは、古代に律令制度を輸入以来、何事も表向きと実際の2重基準で誤魔化してきたのが、わが国でしたが、本気で法律を守らせようとすれば大問題になってしまったのです。
話が飛びますが、建前と本音の2重基準・ダブルスタンダードは、わが国習俗に合わない律令輸入以来、千数百年以上の伝統ですから簡単には変わらないでしょう。
大徳寺、東福寺等、京の大きなお寺に行けば分りますが、大きな朱塗りの門があってもそこは閉まっていてその脇に別の道があって出入りしているのです。
羅城門を作っても、それは飾りでしかなかったのです。
話を夫婦の氏の実例に戻しますと、武田信玄の息子勝頼の母が諏訪氏といわれ、真田幸村の正妻は大谷氏と言われていたように貴人の場合、何々「氏」と呼ばれるのが正式でした。
或いは、古くから順次見て行きますと、やり手で有名な橘の三千代(藤原_不比等_との間に生まれたのが、施薬院で有名な光明子・光明皇后です)は、元は犬養姓でしたが、藤原氏と一緒になってからワザワザ橘姓を賜ったというのですから、制度上も別の氏であったことは紛れもないでしょう。
平安時代にも通い婚の時代には、女性は実家の氏を称していたのは当然です。
通い婚がすたれて同居時代が来ても、北條政子や足利義政の妻日野富子の呼称で明らかなように応仁の乱ころまでは明らかに別氏でした。
その後も、信長の妻が美濃の国から来たので濃姫といわれるように、女性ははむしろそれぞれの出身地の氏で表示されていたのですから、夫婦別姓・別氏のほうがわが国の習慣であったとも言えるのです。



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