03/09/05
江戸時代の離婚制度5と性道徳(庶民にのぞきはあったのか?)
修道院の話に戻りますと、わが国でも応永三十五年、4代将軍足利義持が急逝した際に、それぞれ寺に入っていた弟のなかからくじで将軍職を決めたと言われており、籤にあたった青蓮院門跡義円が還俗し、義教と改名し、将軍となったと言われています。
青蓮院門跡と言えば、4〜5年前の新緑のころ雨の日に妻とともに訪れたことがありますが、中々いいお寺ですので、もしもまだ行かれていない方は1度行かれるといいですよ。
このように、嘉吉の乱で討たれた将軍義教に始って足利家や天皇家では、後継ぎ以外は僧籍や神官〔巫女・)になって、一生独身を強いられたのと同じです。
江戸時代の庶民では、これまで書いて来たように、大きくなると男も女も都会に放出していつのまにか、死に絶えていく社会でした。
(平均20になるかならないかで大抵は死んでいったようです。)
そのうえ、性欲の方は性産業で処理する社会でしたから、修道院みたいなものに隔離しなくとも子供を産まないし、婚姻もしないのですから、離婚を禁止したり厳重化する必要がなかったのです。
こんなわけで、江戸の町人以外の庶民は(多くは百姓でしょう)おおらかな性を楽しんでいたのです。
この点は、幕末の欧米人の旅行記で、男女混浴風習について、珍しがったり風紀の乱れのような記述をする者が多かったことを想起するのもいいでしょう。
わが国では、男女ともに人前で裸になるのを何とも思っていなかったのですが、欧米的教養が身につくに連れて、次第に肌を見られるのは恥ずかしいとか、逆に覗きたいとかの変化が生じたに過ぎません。
昔は、今のように「覗き」「盗撮」などが、流行する土壌がなかったのです。
つい2ヶ月ほど前、ある人が故郷の大事件として日露戦争でのロシヤ艦隊のはぐれ船が漂着したときの救済記事を日経新聞の文化欄に書いていましたが、彼の記述によれば体の冷えたロシア兵を地元婦人が人肌で暖めたと書いています。
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC