03/07/05

離婚の自由な社会3〔江戸時代の離婚制度4〕民法125

東慶寺のストーカー問題から大分話が横に逸れましたが、本題の離婚法に戻りましょう。
02/18/05「江戸時代の離婚制度3(民法124)東慶寺1(駆け込み寺)」の続きです。
江戸時代には、実際には殆どの場合、親族間の話し合いで離婚していたのです。
これまで書いて来たように、離婚には複雑な話し合いが必要ですから、一刀両断的な強制力に頼ってもうまく行かないことが多いことから生まれた知恵かもしれません。
法的な手続きは、そうした合理的話し合いが出来ないストーカー的場合ですから、(これは今でもあるので、DV防止法が制定されたのです)これを原則のように誤解すると歴史を見誤ります。
ご存知のとおり、ローマンカトリックでは結婚は神の定め?ですから、原則として離婚はありえない論理構造でした。
10年前ころにイタリヤで離婚法が成立したとか、僅差で成立しなかったかニュースになっていました。
正確には覚えていませんが、ま、西洋は今やカソリックばかりではありませんが、西洋とはそんな思想を基盤とする社会です。
イギリスのヘンリイ八世が離婚するために、カトリックと訣別してイギリス国教会として独立させた歴史は有名なところですから、殆どの読者の方はご存知でしょう。
チャールズ皇太子がダイアナ妃との離婚でもめていましたが、イギリス王室は、王冠をかけた恋とか世間を騒がすのが多いですね。
イタリヤなどカトリック国では、裁判上の離婚でさえ前記のとおり近年国民投票でもめていたくらいですから、キリスト文化圏の道徳では、(婚姻届をしない婚外子が増えるわけです。)協議離婚などは論外でした。
近代になって裁判離婚だけを認めるようになっても、離婚理由をできるだけ限定して出来るだけ認めたくない社会だったのです。
こんな無茶な道徳が長い間表向き有効であったのは、一つにはそもそも田舎には、教会がきっちり行き渡っていなかったのと、教会のある場所でも教会に届け出ない事実婚が多かったからです。
01/14/05「私生児率とモラル(戸籍制度3)」のコラムでも紹介しました。
また、わが国では、婚姻無効判決など、共同生活した後で訴えるなど考えれないところですが、西洋では婚姻無効の裁判例として、実質的な離婚解決の便法として利用されていたものらしいです。
ジャンヌダルクで有名な魔女狩は、末端にまでキリスト教が浸透してきた段階で、土着宗教の弾圧、キリスト教拡張運動の一環として発生したたらしいのです。
この行き過ぎた運動の結果、末端までキリスト教が根を張ると、今度は免罪符のような行き過ぎが生じてきます。
宗教改革運動が起こった所以でしょう。
こうした歴史経過から、欧米では現在でも(「私が勉強したころでは」という意味で、最近は日本のまねで認めている国があるかもしれません。)原則として協議離婚の仕組みは有りません。
わが国では江戸時代というか、その前からずっと離婚の自由な社会であったのですから、欧米系の民法を持ち込んでもいきなり禁止できませんでしたし、離婚理由も限定的でなく開放的にせざるを得なかったのです。



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