03/31/04
男の沽券(沽券)面子とは?2(農地売買の禁止)
沽券が地券に代わるまでは、沽券は実用に使われていたはずですが、その実用品が何故、格式や、体面を表す言葉に転化したのかが、今回のコラムのテーマです。
私の想像ですが、土地の流動化とともに発達してきた武士が、次第に力を持って、武家が完全に政権を握った・すなわち武家支配の完成型が江戸時代でした。
朝廷と言っても自分で食べていくことも出来ず、幕府から捨て扶持のような2〜3万石を貰ってやっと息をついている状態で、高野山などの巨大山門とほとんど同格の扱いだったのです。
武家支配が完成すると、皮肉なことに武士の戦闘能力が御用済になってきました。
平和社会になると、領土を守るための武士が不要になるのは当然です。
そのうえ、土地取り引きも禁止されて激減してしまったのです。
土地取り引き禁止は、封建制度の当然の帰結と考える人が多いと思いますが、徳川家は、そう言う理論体系で政治を行っていたわけではなく、単に小農保護の為にと言う名目かどうか分りませんが、禁止令を出したようです。
ここで一応の言葉の知識を紹介しておきますと、現在の所有権に当たるぴったりの言葉はなくて、明治民法成立までは、所持と言っていたようです。
もちろん言葉が違う分だけ、内容も少し違っていて、(徳川期の大老と現在の総理とは言葉が違うだけでなく権限も違っていますよ)今の民法の所有権とはかなり違っています。
順次見て行きますと、大名、旗本の知行地は、支配権はあるものの、私有地とは言えず、幕府から拝領の屋敷地は借地ではなく地主ではあったらしいのですが、処分権は認められていませんでした。
後に同心のコラムで書きますが、彼等は屋敷の一部を町人に貸して生計をたてていたのですが、また貸しではありません。
現在の所有に最も近い町人の町屋敷地でも、農民への売却は禁止されていたようです。
土地所有の殆どを占める、百姓の田畑所持については、年貢の安定確保の為に種々の制約が加えられていたとのことです。
その一例としては、寛永20年(1623年)に、小農の没落防止を理由に永代売買が禁止されました。
諸藩でもこれに倣うことが多かったようですが、水戸藩や延岡藩のように禁止しなかった藩もあるようですから、一律ではありませんが、原則禁止の時代と思ってほぼ間違いないでしょう。
ただし、合法的な売買取り引きとしては、年季売りあるいは本物返し、と言う現在法で言えば、買戻特約付きの売買は認められていましたので、形式をこれに仮託して、実質は永代売買と言うものが多かったようです。
あまり実効性がなかったので、禁令撤廃の意見書が荻生徂徠から出され、さらには大岡忠相ら3奉行からも申し出でがされたらしいですが、徳川体制の根幹に関わるからか、禁令違反の刑を軽減するだけにとどまったらしいです。
こうして明治5年に解禁になるまでは、ずっと農地売買は禁止されたままだったのです。
そして、太平洋戦争後、自作農創設措置法を経て、再び農地法によって、許可制に戻りましたから(もちろん現在の法です)農地の売買はほとんど禁止に近い状態が続いていることになります。
こうして、実際の取り引きが激減してしまった結果、土地所有者であることの証明になる沽券の役割が実用的取り引きの為ではなくて、土地持ちかどうかの区別、ひいてはその人の格式、体面を表すものに転化して行き、沽券は床の間に飾ってある先祖伝来の武具甲冑のような役割になってしまった可能性があります。
敵襲を防ぐための門が、平和になると、本来の役割を離れて門構えの大きさで格式を表すようになったのと同じです。
このため、車時代になっても門を毀せずに、横の塀を壊して車を出し入れしている旧家があります。
こうして実用品であった沽券証文は、江戸時代300年弱の間に、武具甲冑同様にお蔵入りしていた間に、家の格式、体面を表す言葉に転化したと言うわけです。
農地規制の話が出ましたので、現在はどうなっているかについて、関心がある方もいらっしゃるでしょうから、次回のコラムでちょっと寄り道ですが農地法を紹介しておきましょう。
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:憲法に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:米国、合衆国、アメリカに関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:江戸に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦前に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:戦後に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:武断に関するコラム
稲垣法律事務所コラム内:中国に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
