03/16/04
戦争放棄と鎖国・・憲法45(平和主義)
話しを鎖国と平和主義に戻しますと、鎖国というオランダ人の報告書をことさら有難がって誤って教育されていますが、その本質は人的交流防止政策でしかなかったことを03/07/04「武術からスポーツへ 4(鎖国と平和主義)」のコラムで書きました。
今回はその続きです。
人的交流防止政策は、(棲み分け)卓見ですし、私は大賛成でこれから、進むべき道だと思っていますが、突拍子もない意見で誰も今のところ賛同者はいないにでしょうから、今回は見送って、追々書くことにします。
東洋では、戦争と平和の両立思想ではありませんので、我が国は主として東洋的秩序の中で平和主義一本で貫徹できたのです。
こう言う訳で、武器の発達で武士が不要になっただけでなく、平和国家になって国家としても武力・戦力が不要と言う思想で運営していたのが江戸時代でした。
徳川政権の平和主義は、東洋の思想に従って、仁慈で政治をするための自発的な武力放棄をしてしまったもので、天下泰平を謳歌して、当時の最新兵器火縄銃まで工芸品にしてしまったのです。
ところが、黒船来航によって東洋とは違った、弱肉強食の世界思想・秩序が押し寄せてきた以上は、旧思想では対応できません。
上を下への大騒ぎの末、体制を一新して我が国も富国強兵政策・人口増にまい進することになったのです。
鎖国から開国と言われていますが、そうではなく、平和主義、人口抑制策から、軍国主義・人口増への思想・政策転換だったのです。
こうした経過を見れば、明治政権の性格は王政復古とは言うものの、平和主義の江戸時代とは180度転換した軍事政権であったことが明らかです。
武家の樹立した政権が平和主義で、王政復古を標榜する政権が本質的に戦争目的遂行の政権であったのは歴史の皮肉ですね。
我が国は、好むと好まざるに拘わらず、弱肉強食の世界に参加していくしかない時代だったのです。
日本は、自分が植民地経営に乗り出すか植民地にされるかしかなかったのです。
あえて言えば、右翼が喜ぶかもしれませんが、朝鮮は日本が保護しなければ、早晩ロシアの植民地になるしかなかったのですから、どうせなら、狼のような西洋の奴隷になるよりはということで日本が進んで保護したに過ぎません。
日本はその証拠に、台湾でも朝鮮でも、現地人に内地並に教育政策を進め、或いは、技術教育もして来たのです。
西欧の植民地で、日本のように教育や職業訓練して来た国は有りません。
戦後を見ても、日本の進出先の東南アジアと、ラテンアメリカを比較すれば明らかです。
大東亜共栄圏構想も、世界中がブロック経済化して、自由な貿易が出来なくなったところから、日本も自分のブロックを作らざるを得なくなったところから始まったものでした。
このように止むに止まれず戦争競争に参加して、リーグ戦を勝ち抜いていったのですが、準決勝戦あたりで、優勝候補の強豪アメリカと戦って一敗地にまみれてしまったと言う訳です。
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