03/14/04
軍事政権と朝廷(幕府・征夷大将軍5)
そもそも幕府は、遠征軍が占領地で臨時に軍政を敷く場合にのみ成立するものですから、武家(軍事)政権のなかの1態様どころか、外夷(塞外)という空間に限られ、かつ臨時的なものでしかないものです。
武家政権とは、武家が、国内統治の1部ないし全部を朝廷(既存権威)の容喙なしに独立して継続的に行使する場合を言うのでしょう。
どこからも制約を受けない最高権力が1体制内で並列することは、論理的に不可能です。
国家の1部支配の場合は、分離独立国になり、全部の場合は、旧政権が崩壊したことになり、この時点で一種の革命・政権交代があったことになります。
無血革命の場合が禅譲であり、旧政権者は名家として残ります。
そうでないときは放伐というわけです。
足利義満も、自分を国王として表示して対明貿易をしていたようですし、徳川家もこの一連のコラムで紹介したとおり、自らを国家元首として大君と表示していました。
彼らは、みんな朝廷から権限を付与されたのではなく、自分の力で権力者になっている・元首であると自覚していたのです。
勿論秀吉も、朝鮮出兵の決定や戦後の交渉などは、自分が日本国国王として行っており、蒙古襲来時の元からの外交使節も朝廷に向かわず、鎌倉に向かっているのです。
外国と戦争するか否かを決める権限・外交使節を謁見して取り決める権限など、いずれも国家元首の必須の要件といわれるものです。
武家政権成立後は、彼らが一人も朝廷に相談せず、(鎖国の一連の政策決定や日米和親条約のときも朝廷に許可をもらうという思想がなかったので、徳川家が結んだのです。)元首として振舞ってきたのです。
それを隠蔽する為に、唯一例外的場合に幕政が許される征夷大将軍による幕府と言うものを、明治政府及び学者が創作したものと思われます。
「創作」と私が言うのは、実は私の独断ですが、明治期までは誰も幕府とは言ってなかったのではないかと思うからです。
ところが、武家政権イコール幕府イコール朝廷の傘下にあるという図式を作ってみたものの、本来織田、豊臣政権も武家の政権ですから、明治の学者の分類で言えば、幕府でないのですから困ってしまいます。
織田信長に至っては、朝廷の上に君臨しようとする考え(天下布武の思想です)が明らかでしたから、これも朝廷の下にある武家政権=幕府と言う説明では、収拾がつきません。
織田信長は,天下統一直前までしか行かなかったと言う言い訳が出来ますが、豊臣秀吉に至っては、文字とおり「お天下様」と言われていたのです。
そこで、征夷大将軍は源氏以外には認められないと言う訳の分らない根拠(有名な坂上田村麻呂に始まって、幾らでもいますよ)を作って、将軍にならなかった武家政権はさしあたり幕府概念から除外してしまいます。
「さしあたり」と言う意味は、武家政権のときの天皇家はどういう地位にあったのかが議論の出発点ですから、信長や秀吉は将軍でないから・・・・?さしあたり議論しないというのでは、まともな論理といえないのではないかということです。
将軍であるかないかと武家政権でないかどうかは関係ないのですから、そこで思考をそらしているのはおかしいのではないかと言う私の考えです。
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