03/11/04
幕府(将軍家)とは?2(大君・大樹公の抹殺)
これまで見てきたように、江戸時代には誰も使っていなかった「幕府」や殆ど使っていなかった「将軍」という呼称は、誰が言い出したのでしょうか?
ご存知のように、当局ないし政府を現すのには、「大公儀」と言う言い回しが流通していたようですが、これが正式名称なのか単なる俗称なのかは、今のところわたしには勉強不足でわかりません。
政権樹立にあたっては正統性の裏づけが欲しいものですが、薩長土肥の連合体である明治政府としては、徳川家に臣従を誓っていた経過から、謀反ではないという説明が必須でした。
そこで、徳川に優越する天皇家を担ぎ出して、錦の御旗を立てて官軍と言う名称によって、正当性を根拠付けたのはご存知のとおりです。
そうすると、徳川と天皇家の関係を理論付ける必要がでて来ます。
家老や宰相が、その地位のまま政権を壟断すれば君側の奸ですから、その下位の者が悪家老を成敗しても謀反ではなく、君側の奸を討った義挙になるでしょう。
しかし家老や宰相が、自分がこれから皇帝になると宣言して国権を把握した場合、そのときから国王であって、君側の奸ではありません。
したがってその臣下になってしまった者(例えば薩長)が、新しい国家君主・大樹公に刃向かうのは謀反です。
三国志の魏の実力者司馬炎が西晋王朝を樹立した後は、彼が皇帝なのです。
唐王朝の初代もそうです。
ところで、前回まで書いて来たように徳川は、対外的には国家元首である「大君」として表示し、対内的には一介の将軍でなく、大樹公として君臨していたのです。
西洋各国も、明治維新までは徳川を国家元首として理解し交渉していたことは紛れも有りません。
こうして日米和親条約が、徳川との間で締結されたのですし、明治政府もこの条約が無権限な者によって締結されたから無効であると言う主張は一回もしたことがないのですから、法的には、維新までは徳川が君主・元首として外交権を持っていたことを認めていることになリます。
前々回のコラムで紹介した、朝鮮や西洋の外交使節も徳川に謁見をしていたのです。
江戸時代に徳川が国家君主になっていたとすれば、朝廷は、既に権力から下りてしまった何代か前の前政権の後裔に過ぎず、中国の禅譲の場合で喩えれば、元の王家は名家として特別待遇で残るのと似ています。
こうして朝廷は、ずっと前に一種の禅譲してしまった前々・・前々政権に過ぎず、中国とは違って限られた限度(祭祀)で権能を維持し続けたのは、その時々の政権によって、一定の利用価値を認められて存続を許されていただけのことでしかないとも言えます。
薩長土肥は、徳川の家臣となっているのに、こうした前前々政権の生き残り、極端に言えば遺児を探し出してきて、○×王朝復興名目で旗揚げしたようなものでしょう。
明治政権は、こうした弱みを消す為に、
「天皇はずっと国家元首であった。」
「徳川はその下部組織の将軍家でしかないのに、朝廷の政権を実力で牛耳っていた。」
「そこで、君側の奸を除いたのであって謀反ではない」
と言う論理構成が必要になったのでしょう。
そのためには、前記のとおり、徳川が一回でも国家元首になっていたという事実は都合が悪くなります。
なお、元首の定義は、現在の天皇の地位と絡んで憲法学の難しい問題ですが、関係するときに書きましょう。
そうした論理構成の元に、前政権は、明治政府よりもずっと格下であったことを強調すると共に、徳川といっても所詮朝廷内の数ある官職の一つの「大将軍に過ぎなかった」と貶める為にことさら「将軍家」が強調され、君主をあらわす「大君」や「大樹公」の表現は国民の目から抹殺されていたのではないでしょうか?
何しろ私などは不勉強でもあったので、いろいろな書物で「大君」とか「大樹公」の文字を見ても、(学校教育だけでは)直ぐには誰のことかわからないような歴史教育を受けてきたのです。
なお、今回の意見は、我が国は中華思想を持っていたということと、大君や大樹公と表示していたことは、専門家の意見を踏まえていますが、その他の意見に亘る部分は例によって私の思いつき独断の意見でしか有りません。
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