03/09/04

近世初頭の日本と中国

皆さんは、あの大きな中国と対等なんて考えられないと思うでしょうが、実はその頃の中国と日本の人口比は、はっきりとはおぼえていませんが、4対3程度でそれ程の差がなかったのです。
その上中国は異民族の混在で統治が難しい上に、土地が広くて非能率この上ありません。
現在のような交通機関がありませんので、広い砂漠や川で遮られている国土というのはとても非効率でした。
今のように車や高速道路があっても、物を運ぶのに近いほうがいいに決まっています。
その上、当時の日本は、メキシコの銀、後のアメリカ西海岸のゴールドラッシュに匹敵する産金・産銀国でした。
それまでの日本は、跡取目的に武士階層は生めよ殖やせよ政策だったのが、(例えば家康は男子だけでも11人もいました)、前回のコラムで紹介したように、いきなり民族主義政策・その一環としての人口削減方策に切り替わり、江戸期の300年近くは殆ど人口を殖やさなかったのです。
その代わり一人ひとりに十分な教育を受けさせる政策、或いは粗放農業に対する・・・集約農業というように、工芸品を含めてあらゆる面で、こってり手の込んだ文化を育成したのです。
こんな発想は世界中どこにもないと思いますが、何故いきなり180度転換できたのかが不思議だと思いませんか?
これはまた別の機会に書きましょう。
この間中国は、野放図に人口を殖やしてきたので、現在の「ありさま」でみんな貧乏人の集まりになってしまったと言う訳です。
ですから、ここ100年程度の人口比較で考えると大きな間違いを起こしますよ。
中国を旅してみるとわかりますが、人の住めるるところは狭くて、雑草もまともに生えていないやせた土地が殆どです。
人口の割りに人の住める土地が少ないらしく、川にまでせり出して家を立てているくらいです。
人が利用できる土地面積は狭いのに、(前記のとおり広いだけ不便なのです)あれだけの人口にしてしまったのは為政者の知恵の差というべきでしょう。
話しを日本が中華になったところに戻しましょう。
以来、年に一回朝鮮通信使を受け入れるようになり、(新井白石の改革で3年に一回になりました)西洋からも、年に一回長崎出島から参府が許され、将軍家(当時は大君といってました)に拝謁が許され、献上品を奉呈する儀式がありました。
まさに朝貢の形式です。


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