03/07/04
武術からスポーツへ 4(鎖国と平和主義)
団体としての大名の改易旋風が収まってみると、次は個々人の武術不要時代が現実化してきます。
改易と同時に、まずは失業問題として現れますが、改易されない大名家内部でさえも、粗暴な人は不要な気風がみなぎってきます。
武術は何の役にも立たない時代ですから、肩身が狭くなるのは自然の勢いです。
しかし、武断派は前時代の立役者ですから幕府、各藩では、その功績で、大きな家録保持者(要職候補者)ですから発言力も無視できません。
彼らは、武力を持っているだけにこわ持てです。
適当に手なづけなければなりません。
放置していると由井正雪の乱のようなことになりかねませんから、各藩・幕府にとって、武骨者の宥和政策は重要課題でした。
話しが飛びますが、明治17年(1884年)の秩父(困民党)事件は、士族が噛んでいたから激しくなったとも言われています。
事件の内容は、現在なら普通にある弁護士による消費者救済運動と同じですから、今ならば、弁護士が弁護団を組織して裁判所に訴えれば解決できた部分がかなりあったと思われます。
当時はまだ明治憲法発布前で、勿論弁護士の活動する時代でもありませんでしたから、こうした困民党の救済システムがなかったので、政府との直接対決を招き、しかも時の政府は硬直的な対応しか出来なかった為に騒動に発展したものです。
話しを由井正雪以後に戻しますと、腕力しか取り柄がない者の処遇が問題になっているときに、吉宗の「武」尊重政治のスローガンが打ち出されたのです。
鉄砲時代になって、武田の騎馬軍団があえなく潰えたことから明らかなように馬術も御用済みでしたが、馬術だ、剣術、弓術だといって優秀者を報償したのです。
それどころか、我が国は倭寇以来対外侵略ないし膨張一辺倒であり、当時世界最大の鉄砲生産国であったのに、鎖国以来いきなり平和主義になってしまい、鉄砲も船も戦争道具は何もかも造るのすらやめて、海外膨張も止めてしまったのです。
国内が平和になっただけでなく、対外的にも争いがなくなっていたのが江戸時代でした。
ちなみに鎖国政策といわれていますが、これは後年開国することになったので、それまでの制度の説明としてオランダ人が書いたものを、通詞が鎖国と翻訳したに過ぎません。
それなりに貿易はしていていろいろな科学知識は導入されていたのですから正確には「平和主義」ないし「民族主義」に変更しただけのようです。
と言うのは、鎖国政策といわれるものの要点は、外国人が国内に混在するのを許さず、出島以外には居住を認めなかったことと日本人も外国へ行かせないどころか行ったものは、帰ってこさせないという徹底した人間の出入国管理が基本であって、貿易禁止政策では有りませんでした。
こう言う政策は、昔も今も世界中で日本だけでしょう。
現在我々が、外国人混住を嫌がる意識の起源かも知ません。
そして、歴史的な民族意識を抜きにしてこうした極端な民族政策がいきなり出てくるわけがないのですから、その淵源を探求する必要があるでしょう。
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