03/06/04

飛鳥尽きて・・・・(伊達政宗の場合)

家康は福島正則については、「自分が生きているうちは義理があるが、自分が死んだ後は義理がないから好きなようにしてよい」と秀忠に遺言していたといわれます。
これは、外様大名取り潰し策と言う悪意で紹介されていますが、そうとばかりはいえません。
そこだけが有名で、いかにも家康は人が悪いというイメージですが、家康は歴史の現実を見据えて、変わりようがない人間と見込みのある人間を冷徹に観察していただけでしょう。
と言うのは、02/11/04「水戸家は政権内野党?(教養と職務が乖離すると?)」のコラムで紹介しましたが、家康の六男であった松平忠輝(伊達政宗の娘婿)は、やはり乱暴もので家康の遺言で改易されています。
その他に外様大名どころか家康の実質上の跡取であった(松平宗家を継いでいます)結城秀康の長男の忠直は、乱暴なふるまいが多くて改易されているのです。(菊池寛の忠直卿行状記で有名です)
要するに、家康の息子であろうと、どうにもならない粗暴武断派が改易されているのですから、外様大名取り潰し策とは言い切れません。
関が原で、家康に味方した豊臣恩顧の大名は基本的に武断派で、石田光成の文治政策について行けなくて光成に反感を持っていたグループでした。
そうした経緯から見れば、粗暴グループは、豊臣恩顧の大名に多かったのは必然です。
家康は、そうしたグループは、政権をとるのに利用できますが、その後の安定期には邪魔な存在であることを十分わかっていたのです。
誰でも豊臣政権を見ていれば、石田光成のやり方が必要な時代がきていることが分っていた筈ですが、家康がそれを承知で、不満分子を煽ったのです。
家康はそこで、自分の政権も混乱しないように、息子の忠輝に始まってこうした粗暴グループを遺言で改易するように命じておいたのでしょう。
弟の将軍家がやりやすいように秀忠の兄達を処分するように遺言していた意味もあったかも知れません。
こうした改易に驚いて、忠直の弟の出雲の松平家は、風流に転進しておとなしくなったことを前回のコラムで紹介しましたが、秀忠よりも系列上目上になる兄たちの家系を黙らせた効果は大きかったでしょう。
范蠡が呉越の争いで成功してから、「・・・飛鳥尽きて良弓臓(かく)さる」という格言を引いてさっさと身を引いた故事が思い起こされるところです。
この点、多感な青少年時代を戦から戦へ馬上で過ごした伊達政宗は、時代の変化を敏感に感じ取って、老後は茶の湯その他風流人に転じたのは立派でした。
ご存知の方が多いと思いますが、伊達政宗の有名な詩を紹介しておきましょう。
       馬上少年過  馬上少年過ぐ
       世平白髪多  世平らかにして白髪多し
       残躯天所許  残躯天の許すところ
       不楽復如何  楽しまずまた(して)如何せん

最後の句をどう読むべきでしょう? 
今の流行の言い方ですとぴったりです。
   「たのしまざるは、また、いかがなものか?」
もしかしたら政宗は役人言葉の創始者かも?


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