02/29/08

西洋近代哲学の発展2(神の死)

絶対的な価値が崩れると、どこの世界でも認識論・・結局は相対主義が勢いを得るのですが、「訳がわかりません」というだけでは、世の中が収まりません。

カント(1724〜1804)哲学でも、結局は認識の限界を超越した先験的?道徳律が持ち出されます。

般若心経では、五蘊を空とし、その他すべてに実体はないといいながらも、説法する観音さま自体は幻ではなく、実体として存在すると主張しているのと対比できるでしょうか?

その延長上で、ニヒリズム・・ニーチェ(1844〜1900)の「神は死んだ!」となりますが、神が死んだままでは、困るので強いニヒリズム・・超人=超克できるニヒリズムと、弱いニヒリズムの2種類が考え出されたのでしょう。

結局は、般若心経が最後は真言・呪文に頼るのと同じで、カントもニーチェも論理思考を超越した先験的なものを措定せざるを得ないのですが、そこのところが私にはよく分かりません。

宗教と違って、呪文・・真言を唱えて、一丁上がり・・解決といかないところが、近代哲学の苦しいところです。

カントの時代に道徳律を想定し、期待したのは、教養と財産のあるブルジョアジーでしたが、ニーチェのころは無産階級も対象ですから、キリスト教の神・・唯一絶対神は、機能不全・となって、「神は死ん」で虚無主義となっても、ニーチェが期待する超克できる強い人は滅多にいません。

この一種の不可知論・・不安心理に対する批判から、認識が存在を規定するのではなく、マルクス主義やダーウイニズムなど・・存在がすべてを規定する思想の発展(復活?)に繋がるのです。

もっとも、キリスト教の神学では、そのずっと前から、普遍論争と言うものがあって存在論が既に先行していたので、こうした議論の下敷きを無視できないので、近代の存在論から実存哲学にいたる系譜は、神学論争の一種の復活ではないか?という疑問を私は印象として抱いています。

仏教では、すべて「空」であると達観して、後は呪文の世界に逃げて?終わりですから、「存在」についてあまり厳しく論じてこなかったのではないでしょうか?

(専門家はやってきたかも知れませんが、私など低レベル信者にとっては知られていないと言う程度の意見です。)

いわゆる神学論争は、私には,難し過ぎて十分理解できませんが、ともかく、普遍的存在と個的存在の有無を争う論争ですが、(宗教の存在意義にかかわるから、争そうのでしょうが、私には、争う意味が未だによく分かりませんが、・・)これが、その後「神が死んだ」と言われる後の実存哲学に生き返っていくのでしょう。

 



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